*理由-wake-*
=2=
ジュリアスの背に廻された腕から徐々に力が抜けてゆく。
あれほど別に床をとると主張したジュリアスは今、クラヴィスの胸に頬を寄せ一つの寝台に横になっている。互いに緩く廻した腕を引くでもなくただ抱き合って眠りに就こうとしていた。断固として譲らぬと思えた彼が如何にしてこうも容易くクラヴィスに身を預けたのか?それはあまりに自然な流れであり、言い合いも諍いも無理強いもありはしなかった。並んで掛けていた椅子からクラヴィスが立ち上がり「そろそろ休むか…」と言った。頷くジュリアスの目の前に差し出された腕が答えを待っていた。クラヴィスは早く来いとも腕を取れとも言わなかったが、ついと伸びた腕が彼の言わんとすることを雄弁に語っていた。
ジュリアスは迷いもなくそれを取る。自分の手のひらを眼前にあるほっそりとしたそれに重ねた。軽く引かれて立ち上がり部屋の奥にある寝台に二人は滑り込んだ。向き合って互いの顔を見つめ、腕を絡めて静かに瞳を閉じる。クラヴィスの唇が一度だけジュリアスの額に触れた。
「良い夢を…。」
囁く声に促されジュリアスは彼を迎える胸にそっと頬を寄せた。
やはり約束された安息に誰しもが身を任せたのだろう。少し前まで聞こえていた隣室からの会話も消えていた。
窓外に吹き荒れる強い風だけが沈黙を遮る唯一の音であった。暫くの間ジュリアスは瞳を閉じてクラヴィスが背を撫でるのに任せていた。ゆっくりと同じリズムで動くその間隔がふと気づくと僅かずつひらいてゆく。いつしか動きは止まり、当てられた手のひらの温もりだけが薄い夜着を通して肌に感じられるだけとなった。そして腕を支えていた力も抜けた今、ジュリアスの耳に流れ込むのは規則的なクラヴィスの寝息だけとなった。
明かりの落とされた室内は深い夜に沈み当初なにも見えないと思えたが、少しもやってこない眠りを待ちながら触れるほど近くにあるクラヴィスの寝顔を眺めているうちに、その細部まで見てとれるようになった。
もう数え切れぬくらい見慣れた顔をこんなに近くで見つめるのが大層久しぶりだと気づく。ジュリアスが懸念した通りに間近にある白皙の顎の線は彼が知るよりもずっと鋭くなっていた。滑らかできめ細やかな肌に傷もなく切れ長の目の淵に疲労のくすみがない事が何よりの幸いであった。
群がる魔物に剣を振り向かって行くジュリアスと違い、クラヴィスは後方より援護を行うのであるが、旅の始まりの頃より格段に魔物の数が増えたここ数日になると直接攻撃では防ぎきれぬのが現状である。一度に多数のしかも空中から飛来する敵を墜とすのに有効なのは、クラヴィスの召喚魔法であった。異界より巨大な獣を呼び寄せるそれは戦闘の長期化を防ぐ何よりの手段であるが、使い手であるクラヴィスへの負荷は決して軽いものではない。一日に多数の戦闘を終えた夕刻など、労いの中で全員が暫しの安堵を喜び合う夕食の席を早々に辞して後方に並ぶ立木に身を凭れさせる姿を視界の端に捉える度、ジュリアスは胸の底に在る苦い思いに唇を噛まずにはいられなかった。
召喚するなとは言えない。全員の安全の為にそれが必要とされるなら奨励こそすれ、禁じる謂われはないからである。しかし彼のもう一つの姿、参戦する全てを束ねる長ではないジュリアスは出来るならそれを使わないで欲しいと望んでいる。口には出さない。出せる筈などない。形にしてはならぬ願いである。以前はそれを否定していた。
ジュリアスには公私の隔てが存在しなかった。例え一人私室にあっても彼は公人であり、その明晰な頭脳を占めるのは職務以外の何物でもない。私が公を越えるどころか私があること自体を自らが捨てていた。それ故にクラヴィスと共に在ろうとする自身を恥じ、一度はその関係を手放そうとすらした。
だが年月が彼に幾ばくかの変化を与え、殊この長く辛い旅にでてからは訪れた変化を己が内で育もうとする姿勢が見られる。形にこそしないが、否定などせず己の願望を素直に受け入れんとしている。自身の内部に渦巻く淫らな欲望を拒まず、躯を重ねたいと欲するを押さえるには床を分けることが賢明だと判断しての主張であったのだが。それすらクラヴィスの差し出した腕には一掃されてしまった。それでいて彼に僅かでも休息を与えたいとも思っている。クラヴィスが疲れ切っていたのは幸いだった。先に眠ってくれなければジュリアスは自分の望みをあからさまに伝えていたことだろう。
体内に深く飲み込んだ灼熱を思わせる欲望の証が自身にもたらす苦痛にも似た快楽の予兆はジュリアスの躯だけでなく全身の細胞一つ一つに刻まれており、クラヴィスの髪が鼻先を掠めただけで腹の下辺りに熱が集まるのを止められぬのは分かっていた。嘗ては守護聖と個人の間で揺らいだ自分が今は自らの二つの望みの間で揺れている。人を好きになる事、人から好かれることがこんなにも一人の人間を変えるのかと、今更ながら不思議に思う。
そして自身が変化したと同時にクラヴィスも少なからず変わったと感じる。だからジュリアスも必要以上に小言を言わなくなったし、クラヴィスも何かにつけて口にした揶揄を含む一言を発しなくなった。誰かを完全に理解するなど不可能に違いない。それでもほんの一部なら理解できるのだと信じられるようになった。
そっと手を伸ばし肩から流れる濡れ羽色の髪に触れてみる。
色のない夜にあってもそれは美しい光沢を放ち広がっている。この者だけは失ってはならないと胸の奥で堅く誓う。誰一人欠けることなく女王を救い出し聖地に戻るのは必至である。以前なら他者を救う為に己を差し出すべきだと信じていた。しかし今は違う。それだけはしてはならない。
仮に宇宙がそれを望んだとしても、クラヴィスが望まぬなら他者を救い自身も残る道を選ぶと決めた。それこそが彼に訪れた変化なのだと言えよう。守護聖として、その行為が女王への反逆になったとしても。
いつしか風は収まり、ただ深々と降り続く雪が世界の音を飲み込んでいる。緩やかに訪れた眠りがジュリアスの瞼に心地よい重みを与え始めていた。きっと明日もその次もこんな夜を過ごすなど叶わないだろうと一人思いながら、ジュリアスは今一度クラヴィスの胸に頬を当て、耳に流れ込む彼の鼓動を感じながら静かに瞳を閉じるのだった。寄せてくる睡魔に手を伸ばし、その優しい波に身を任せて薄くなる意識の中彼は小さく吐息を洩らした。
夜は全てを腕に抱き、ただ安息の中へと誘ってゆくのだった。
続