*理由-wake-*
=1=
玄関ロビーに集まった全員から大きなどよめきが起きた。
それは歓喜でも落胆でもなく、驚嘆と言う言葉が一番近いと思われた。部屋割りをくじ引きにしようと言い出したのが誰なのかを隅の方で話し合う者の気持ちも分からなくはない。普段からそのぞんざいな言いようを年長から注意される年若い守護聖辺りからの提案だっったのだが、言い出した本人もその結果に大いに仰天しているようである。
通年を冬季におかれるこの惑星では野宿はままならず、最初に訪れた時も宿を取りそこに全員が泊まった。今回も同じ宿をと訪ねてみれば、休日やらそれに当て込んだ催しなどが絡み街で最も大きなそこは既に満室となっていた。
外は吹雪で閉ざされている。
幸い紹介された幾分部屋数の少ない宿にはそこそこの空き室もあり全員が胸をなで下ろしたのもつかの間、宿の主人から相部屋でないと全員は泊まれぬと言われ又ひと騒動になってのくじ引きであった。言ってしまえばただ誰と誰が同じ部屋だという結果を相変わらずの仰々しい言い回しで伝える守護聖の長は、そんな彼らの反応など気にもとめぬ風で「各自部屋に入り食事までの間に休息をとるように。」などと凛とした声音で告げたのである。
全員が確かに部屋に引き上げるのを見届けるジュリアスの耳に「ホントに大丈夫なのかよ?」と言う台詞が届く。それが聞こえていないかに、彼はその美しい面相を崩すでも顰めるでもなく最後の扉が閉じるまでその場を動かなかった。
「我らの同室が余程気になるらしいな。」
壁際に置かれた椅子から立ち上がりしなに上がった声にジュリアスは振り返る。
「そうだな。」
声の主に向けた顔には笑みが広がっていた。すでにそこには職務を執る者の面影はなく、柔和な表情とともに声音まで穏やかに変わっていた。
音もなく近寄る姿のどこに在っても変わらぬ涼やかさを視線で追いつつ、ジュリアスは微かに声を漏らす。
「何だ…?」
柳眉が僅かに上がる。今は何かと訊ねたが、たいがいの場合彼の細い眉が上がった時は何かを問いたい時だと決まっている。言葉にも顔にも出さぬそんな小さな変化が手に取るように分かる自分が可笑しくて、またジュリアスは小さく笑う。以前はそれが分からずに逡巡し焦燥さえ感じたこともあったからだ。
「いや…。今頃どの部屋でも私とそなたの話題で持ちきりだろうと考えたら…。」
そう言ってジュリアスは今度は口元に手をやり押さえ切れぬとばかりに声を発てて笑った。
「だろうな…。」
真横に並ぶと馴染んだ彼の香りがする。暖房で乾いた空気が潤された気がした。
「それで…。」
自分たちにあてがわれた部屋は何処なのだとクラヴィスはいつもの抑揚のない声で聞く。お世辞にも立派とは言えぬ薄暗い廊下の突端を華奢な指が指し示す。頷いた視線の先に木製のドアがあった。
暖炉から乾いた音がする。くべられた薪が炎に焼かれはぜるパシッという音が鳴る。
部屋の隅に荷物を纏め、クラヴィスはその横に置かれた長椅子に腰を下ろした。見た目よりかなり古い物なのだろう。彼が掛けただけでそれはギシリと渋い軋みを発した。ジュリアスは暖炉の前に立ち、手にしたファイルから数枚の紙片を取り出す。その途端にクラヴィスがふっと鼻先で笑うのが聞こえた。
「何だ?」
訝しげな顔が問いかける。
「いや…別に。」
クラヴィスは言いながら顔を伏せ、相変わらず笑っている。肩が小刻みに震える。ジュリアスはその様子を見ながらも特に何も言わず書類を引き寄せ、それらに視線を落とした。
以前ならきっとクラヴィスは何か言っただろうし、当然ジュリアスもそれに某かを返した筈だ。しかし今は何も言わない。ジュリアスの勤勉さや生真面目さをからかう言葉を、そう言えば彼はこの旅に出てから口にしなくなった。ただ面白そうに眺めたり、少し眉をひそめる時もあり。今のように笑うだけだったりする。最初の頃はジュリアスも気になるとみえ、何だどうしたと訊ねたがそれもしなくなった。おかしな奴だと呆れた顔をして己のすべき事を続けるようになった。
彼らの内で微かな変化が起きている。確かめ合った訳ではなかったが互いに気づいていた。窓を叩く雪と風。ただ風だけが打ちつけるよりも重い音が室内に響く。しかしこれらが無かったとしても室内に静寂は降りてこない。隣室とを隔てる壁が思いの外薄いようで、声高に話す少年達の声や流れるハープの音色、何者かが誤って落とした恐らくティーカップだと思われるそれが弾ける雑音。それらはまさかと疑うほどにしっかりと閉ざされた筈の室内に届くのであった。
クラヴィスが顔を上げた。ジュリアスはまだ字面を追っている。
「存外…安普請とみえる。」
絶え間なく聞こえる人の音に彼はそんな事を言った。空の高見を映した瞳がクラヴィスに向けられ、だが直ぐにそれは手元に戻された。再び報告書を読みながらジュリアスも「そうだな…」と返した。
「ここに宿を取ったのは我々だけではないのだから、後でそれについても注意する必要があるな。」
彼は紙面の端に何か覚え書きを認めた。
「お前も…声を上げられぬと言うわけだ。」
「…?」
唐突と投げられた言葉の意味が分からずジュリアスは眉間に薄い皺を寄せクラヴィスを見る。彼に向けられた白皙には思わせぶりな笑みが浮かんでいた。
不意にその頬に赤味が射した。
「何を…。」
どういう意味だと問わなかったのは彼が理解したと言う証である。
「夜も更ければ、声も響く。」
「馬鹿なことを。」
額に掛かる前髪を後ろに流した時に見えたジュリアスの耳は火照ったように紅く思えた。暖炉からまた木の爆ぜる音が発つ。益々強くなる吹雪に耐えかね窓枠がきしりと鳴った。その時、壁に掛かる時計が静かに七つ鐘を打った。同時に廊下の先から夕食を知らせるベルが聞こえた。並ぶ扉が次々と開く。どやどやと人々が廊下に溢れる気配に続き、彼らも部屋を後にした。
後ろ手に引いた扉が低く鳴いて閉じる。無人であったにも関わらず室内は思ったほど冷えて
はいなかった。
食堂に彼ら二人が揃って姿を現した途端、先にテーブルについていた者達の視線が一斉に集まった。それまで語られていた会話が瞬時に収まったあたり、どう考えてもその話題が二人の同室についてであったに他ならない。椅子を引き着座しようと腰を落とした時、隣りのクラヴィスがやれやれとばかりにため息を吐くのが耳に届いた。無理もない事だとジュリアスは思う。聖地始まって以来の犬猿の仲と噂される筆頭二人が、例え一夜といえど同じ部屋で過ごすとなれば、如何なる諍いが起こるのであろうかと衆人から好奇の眼差しを向けられても仕方のない事だ。
チラチラと送られる目線の中で、彼らはこの上もなく居心地の悪い夕餉を摂ったのである。部屋に戻ると、それまで赤々と燃えていた暖炉の炎は小さな明かりほどになっていた。それを火掻き棒でかき回し、灰の中でチラチラと燻る種火にクラヴィスは薪をくべている。その後ろ姿をジュリアスはぼんやりと眺める。背で緩く束ねられた黒髪が腕の動きに合わせて揺れていた。
「あれでは食事をした気にもならなかったな。」
手にした薪を放り込みながらクラヴィスが言った。
誰かしらが自分らを見ていたのだから当然であるが、ジュリアスはそんな彼の一言に小さな懸念を抱く。スープとパンに少し手をつけただけでクラヴィスは食べる事をやめてしまった。元々彼は食事に頓着がなく、また摂ったとしても僅かであるのは知っている。しかし、聖地を離れ日々を移動する毎日になってから更にその食が細くなったと思えてならない。一度あまりに気になり問うたことがあったが、返されたのは常と変わらぬとの答えであった。聖地に在る時はあれほど口喧しく掛けた言葉をジュリアスはそれ以上続けなかった。「それなら、良いが。」と言ったまま緩く笑ったジュリアスの内にクラヴィスはその時自身と同じ想いを見た。この旅に出てからやはり確かな変化がジュリアスにもクラヴィスにも起こったと言って間違いないのだろう。だから今も彼は頷きながら「ああ。」と返しただけであった。
ふとジュリアスは室内を見渡す。
狭くもないが決して広いとは言い難い部屋には人が過ごす全てが設えられていた。テーブルも椅子も壁際には長椅子もある。そして奥の窓に寄せて寝台が置かれる。
「クラヴィス。ここには寝台が一つしかないようだが…。」
彼らが住まう邸宅などと違い、ここには独立した寝室などあるはずもない。ジュリアスは寝台の脇に立ち、まじまじとそれを眺める。明らかに人が一人横になる為のものとしか思えない。どう見ても小さくて狭いのだ。上背のある彼ら二人が休むには満足のいくものではなかった。
「それが簡易寝台になるらしい。」
クラヴィスは暖炉に凭れたまま顎をしゃくってみせた。彼の言うそれとは壁際にある長椅子のことらしい。
「それが?」
ジュリアスは目を瞠る。
「背の辺りをどうにかすると寝台になるのだとルヴァが言っていた。」
「…。」
それはそうなのかもしれないが、小さいと思った寝台よりそれは更に貧弱である。恐らくゆっくりと休むなど出来るはずがない。
「私がこちらを使おう。」
多分彼ならそう言うと思った。クラヴィスに寝台を使えと。
「どうして…?」
何故ジュリアスが長椅子を使い自分が寝台に寝るのかと問われたと思い、ジュリアスは理由などないと返そうとした。ところがクラヴィスの訊ねるところが別にあるのだと知り、彼はまた瞠目することとなる。
クラヴィスの問いは寝台を使う理由ではなく、どうして別々に休まねばならぬのかと聞いていたのだ。
「ともに休めば良かろう・・。」
やはりそうか…とジュリアスはどこか納得した顔をする。クラヴィスならそう言うはずであった。夜半ともなれば室内もそこそこに冷えてくる、一つ寝床で肌を寄せていれば凍えることもないではないか…と彼は淡々と続けた。
耳に流れ込む静かな声音の内にジュリアスは別の意味を探さずにはいられなかった。隠れた真意があるのだろうと彼の胸が騒いだ。それまでの幾日も彼らは戸外で一夜を明かさねばならず、火をたき見張りを立てて休んだとしても周囲に広がる暗闇の中にある得体の知れぬ魔物の存在が決して十分な休息を与えてくれなかった事実を考えると、こうして屋内で休める機会にそれまで蓄積された疲労をとらねばならぬのは使命とさえ思えた。
しかし、そう考える反面たった二人で床に入り抱き合って眠るその先にある濃厚な時をクラヴィスが望んでいないとは言い切れない。いや、クラヴィスが望んでいるのではない。ジュリアスも確かにそれを欲していた。抱き寄せられた腕の中で唇を寄せられたら拒むどころか、間違いなく己のそれを押しつけて続きを求めるに決まっている。もしかしたら先に仕掛けるのは自分かもしれない。明日の為に休まねばならない。だが、常に他者の目があり微かにふれ合う事さえままならなかったそれまでの乾きを埋めたいと望む心も確実に存在する。
だから自身の欲望を抑えるためにも離れて床を取るのが賢明だとジュリアスはそれを形にしたのだった。
「やはり、私がこちらを使う。その様な狭い場所でともに休んだとて寝付かれぬ。」
頑なにジュリアスは同じ主張を繰り返した。
クラヴィスもそれほど彼が言い張るのならと渋々ではあるがそれをのんだ。
「先に、湯を使ってくる。」
この一件が落着するのを待っていたかに、クラヴィスは浴室へと消えていった。
夜は音もなく広がり、その懐に世界を抱き始めていた。吹雪は未だ止まぬ。窓の外に立つ木々が煽られごうと重い悲鳴を上げた。
続