*春雷*

=5=

丘の上から見渡す先には褐色の大地があるだけで、その上を渡って吹き寄せる風は思った通りに乾いた土の香りがした。
次元回廊を使い主星に降り、そこからシャトルに搭乗して数時間を要する惑星の中心地から幾つもの丘陵を越えてこの場所まで来た。首都に当たる都市の神殿に入り、此処を割り出すまでに二日かかった。
聖地からいくらサクリアを送っても何故かその星の一地域にだけ行き渡らぬ事実を王立研究院が調査し、結局確かな結果が得られぬままクラヴィスが出向くこととなった。
星は安息を求めていた。
決して大きくはないが、各地に紛糾する小競り合いがその要求を裏付けている。それなのに与えたものが受け入れられない現実がとうとう闇の守護聖を赴かせたのだ。視界を遮るものは何もない。丘の上に立ち遙か先まで続く赤い大地をクラヴィスは眺めていた。彼の後には崩れた石造りの壁があった。正確には恐らく壁であったと思われる瓦礫があるだけで、随行した職員が資料に示された古い地図と照らし合わせてこれが崩壊した神殿の跡であると断定しなければ誰もそうだとは思わなかっただろう。
星は無理のない発展を遂げてきた。
緩やかに人口が増え、自然に産業が栄え、少しずつ街が大きくなった。人の営みに流れがあるとすれば、彼らはそれに逆らうこともなく人為をして先を急ぐこともしてはいない。宇宙の終わりが近づかなければ、女王のサクリアの衰えがなければ、この世に混沌の影が落ちなければ、この星の民が多大な安らぎを欲するなどなかったに違いない。ところが彼らはより多くをと望む。望んだ結果がこの神殿の所在を明らかにした。とても皮肉な事だと思われた。これほどの安息を星が求めなければ誰も知らないまま、いつかは朽ちて失くなる過去の遺産であった。しかし今はそんな一つの時代を生き終えた名残にすら頼らねばならない。頼らなければ人々の安らぎが保てない。
宇宙に生まれた亀裂はもはや修正が出来ぬほども広がりつつあるのだ。



この場所に着いてから一時間と少しが経過している。
後方で作業する職員たちが確かな欠片を見つければ、今回の派遣は終わる筈である。それを見定めるまでがクラヴィスの責で、今彼にすべき職務はない。ただ結果が出るのを待つのみである。だから彼は丘の端に張り出した岩に立ち眼前の景観を眺めている。視線の先にあるのは何もない荒れ野であり、地表から吹き上がった細かな土の粒子によって空は低い雲に覆われたかに見えた。太陽は空の中程にあるのだが、広がる朱茶色の帳に遮られぼんやりとした光が拡散するばかりであった。
途方もない広さに軽い目眩を覚え切れ長の眸が細められた。身を隠すものが何もないために赤い大地からの風は遠慮なくそこに立つ者の全身に吹き付ける。弱い陽射しはほんの僅かしか空気を暖める事ができないようで、肌に触れる強風は思ったとおりに冷えている。靡く髪を押さえながらクラヴィスは寒そうに襟元を引き寄せた。
外地に降りた時に思うことがある。その土地土地には必ず匂いがあるのだ。人の暮らす街や村だけなく、こんな何も住まうはずのない荒野にも例えば土や埃の匂いがする。しかし聖地にはそれがない。清廉とした空気に紛れ漂うのは庭園に咲き誇る花々の香であり、宮殿や守護聖殿に至っては人の温もりすら感じられぬ冷気にも似た風が抜けるばかりである。それ故、彼はそこを嫌い人の在るべき場所ではないと口にするのだ。
だが幼少にして彼の地に召し上げられたクラヴィスには他に戻る家もない。結局彼を迎えるのはあの虚無に支配された楽園でしかなかった。そして、その楽園にこそ彼の求める輝きがあるのだ。不意に白皙の口元が緩む。ほっそりとした面に薄い笑みが現れた。



出立の前日に見たジュリアスの笑顔を脳裏に描く。
美しい笑みであった。暖かく幸福な気持ちを運んだ。もうずっと自身の前でジュリアスがあんな顔をするのを見たことなどなく、焦がれるほど求めれば必ず夢に現れるのだった。そして触れようと手を伸ばした途端、夢は終わりを告げる。あの時のジュリアスは常とは違っていた。普段ならあんなくだらぬ噂に耳を貸すことなどないだろうに。どうしてあれ程素直に喜怒哀楽を顕わにしたのだろうとクラヴィスは不思議に思う。
そう思う心の片隅で「もしや・・」とか「仮に・・」と言う言葉が生まれる。もしかしたらジュリアスは本気であの噂に動揺したのかもしれない…。在るはずのない、しかしあって欲しい期待にクラヴィスの胸が騒いだ。本当にそうであったなら儚い願いが叶うのではないかと小さな希望を抱いてしまいそうになり、何度それを自身で否定したことか。それはあの日の夜から今に至るまで幾度も幾度も繰り返されたのだった。
ジュリアスの笑顔。あの綺麗な笑顔が自身に向けられ、内に仕舞う想いをジュリアスが受け取ってくれる気がしてならない。冷気を含む強い風の中でクラヴィスはそんな幻の様な思いに囚われる自身を哀れむかに微かに笑った。そんな浅はかなことを考えるのもきっとこれの所為に違いないと羽織った外套のポケットに入れた小さな瓶にそっと触れるのだった。
「恐れ入ります。」
背後からの声に振り返ると職員の一人が瓦礫の中から探し出した水盤を差し出していた。クラヴィスは何も言わず腕を伸べ、細い指先でそれを一撫でした。触れた箇所からサクリアの名残が感じられ、彼は頷き「間違いない…。」と低く告げた。
この廃墟が嘗ての神殿であり、水盤を用いて過去の守護聖が神儀を行ったことが確認されたのだ。あと数日もすれば聖地から選ばれた人材がやって来るだろう。そして昼夜を問わず作業を敢行し古(いにしえ)の神殿を見事に甦らせる筈である。再びこの世に引き戻されたその建物が注がれたサクリアを赤い大地に広く与える中継点の役割をするのだ。星に住む人々の望みを叶えるために。闇の守護聖の言葉を受けた職員は半ばほっとした顔を作り、また瓦礫の中に戻って行った。これでクラヴィスの責はすべて終了したのだ。
調査の為まだ残ると言う職員達を残し、彼は一人丘を後にした。



丘の麓にある仮設の宿舎に戻るとクラヴィスは宛われた自室に下がった。
間もなく職員達が調査結果を届けるはずである。それに目をとおしたのち、簡単な報告書を作らねばならない。デスクにつき、彼は机上に置かれたファイルの中から指定された用紙を取り出す。その時、幾つか重なったファイルの一つに目が止まった。聖地を出る直前に届けられたものである。そう言えば、こちらに到着してから気ぜわしく中を確かめてもいない事に気付いた。引き寄せた途端、クラヴィスの細い眉が訝しげに顰められた。挟まれていたのは一枚の紙片と封筒が一つだけだったからだ。表にも何も記されていないファイルを開くと今度は驚きに目が見開かれた。
たった一枚の書類には見覚えのある筆跡で赴く惑星は気候帯が冬季にあたる故、何時にもました自己管理を心がけよと言った注意書きが認められているだけである。今まで一度としてこんな書簡を受け取ったことなどなかった。ならばその封筒にはなんの意味があるのかと、クラヴィスはそれを暫し見つめていたが徐にナイフを取り封緘を開いた。わずかに黄味がかった滑らかな手触りの便箋は確かにジュリアスが使うものであった。
長い指がたたまれたそれをゆっくりと開ける。
視線が書かれた文字の上を辿る。ほんの数行の文字を幾度も読み返していた。不意にクラヴィスは立ち上がりデスクを離れると大きく張り出した出窓に寄り、そこに腰を下ろした。少しの間に空は厚い雲に覆われ今にも雨の滴が落ちてきそうである。窓外には色をなくした景観が広がっていた。窓に凭れ、また手にした手紙に視線を落とす。同じ文章を彼は飽きずに何度も読み返すのだった。
室内にノックの音が響いた。入室を許可する押さえた声のあと職員が資料を抱えて入ってきた。デスクの上にそれらを置き、丁寧に一礼すると職員は扉に向かい歩いて行く。突然、窓の外が閃光で真っ白に輝いた。驚いてその方を見るクラヴィスに職員の言葉が届いた。
「もう間もなく嵐となります。早めにお戻りになられてよろしゅうございました。」
「嵐が…?」
「はい。この嵐が過ぎますと寒い時期も終わりになります。」
激しい雷雨は春の先触れなのだと職員は言った。
「なるほど…。」
再び視線を外に向けた途端、閃光が走り遙か先にある丘陵がシルエットになり浮かび上がった。
扉の閉じる音が消えると室内にはクラヴィス一人となった。凭れる窓の硝子にパラパラと雨粒が当たる。
「嵐の後は…暖かい季節か。」
そう呟いてクラヴィスは静かな笑みを浮かべた。ほっそりとした指が紙に並ぶ小さな文字の上を滑る。
『いつか、そなたが幸福を迎える時が訪れたなら、私は心からの祝いを送りたい。偽りのない心からの光の祝福を。』
蒼いインクの記す文字に仄かな希望が見えた気がした。
激しさを増す雨音に紛れ春を告げる雷鳴が遠くに聞こえた。





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