*春雷*
=4=
重い瞼を開くとシーツの白さが瞳に飛び込んできた。夜を閉じこめた部屋には未だ朝の輝きは訪れていない。もう一度あの暖かな夢の中に戻ってしまおうかとクラヴィスは瞳を閉じる。でも終わってしまったあの温もりの中に帰れぬのは分かり切っていたので、彼は仕方なしに再び目を開けるのだった。
最近何故か懐かしい夢ばかり見る。優しかった頃の夢。笑いあっていた頃の夢。光がすぐ側にあった頃の夢。もう二度と繋げぬ手を繋いでいたあの頃の夢。欲しいから、手に入れたいから夢に見るのだと目覚めるたびに胸が痛む。女王のサクリアに暗い影が射し始めてから、当然のことではあるが世界は安らぎを欲しがる。
星々に起こる小さな諍いや争いは日を追う毎にその数を増す。それらを収めたいのか、或いは忘れたいからか日に日に闇のサクリアの需要が増えるのを責める者などいないのだ。望まれただけを与え、与える側などお構いなしにより多くを切望されれば、拒む謂われなどありはしない。あとどれくらい与えれば世界は満足するのかなど、例え宇宙を統べる女王でさえも分からないに違いない。
彼はゆっくりと身を起こす。連日与えられるだけを注いだ躯は水を含んだ砂ほども重い。背を枕にもたせ、朝を知らぬ室内に視線を投げる。そしてあの煌めきを想い俄に顔を曇らせた。宮殿の中で或いは王立研究院で、昨日のように守護聖殿の廊下で顔を会わせるたびにジュリアスは眩しいほども輝いて見える。その光は暗闇を切り裂き深くに仕舞う心を露呈させる強引さなどなく、墨色の静けさに堕ちてゆく想いを包み込み拾い上げる導きだと思えてならない。心を抑えなければ手を伸ばしてしまいそうになる。
今までも、そしてこれからもそれは禁忌であるのに変わりはないのだが、もしかしたら許されるのかも知れないなどと都合の良い幻想を抱くのは、最近ジュリアスが見せる不確かな表情によるものであろう。気遣わしげに寄越す視線や、何かを問いたげな瞳に色。それに気付いてしまったから、儚い夢が叶う可能性を考えてしまうに他ならない。しかも前日の夕刻に起きた言い争いに至っては尚のこと。その時のジュリアスの様子に期待を抱いても仕方がないことだ。だから光の庭がすべてだった頃の夢ばかり見るのだ。世界が輝きに満ちて、何もかもが暖かかった頃の夢を。
思考の深みに絡め取られる寸前にクラヴィスはそれらを頭の隅に追いやった。
「…忘れていた。」
呆れた風に呟き、徐に躯を返して寝台を離れた。この日、早い時刻に聖地を離れなければならない事を思い出したからだ。不穏な空気が満ちる惑星に。祈りとともにサクリアを注ぐために書面でしかその名を知らぬ地に赴くのだ。
「また…小言を喰らうところだった。」
無造作に前髪を掻き上げながら彼はテーブルにあるベルを鳴らす。間もなく現れる使用人を待ってクラヴィスは音もなく椅子を引くと静かに腰を降ろした。
紙面に連なる文字列を追っていた目線がふと何かを思い宙を彷徨う。それはそのまま壁にある時計の針に注がれた。二つの針が重なるまでにまだ随分と間があるのを確認したあと、彼は一枚だけ他の書類から分けられたそれに手を伸ばした。
『出立…午前11時30分』
あと二時間少し…。
頭の中でそう確認するとジュリアスはそれまで読み進めていた紙片を脇に寄せ、引き出しから公式には用いない紙束を取り出した。空を映す瞳が少しの間、何も書かれていない紙を見つめる。そこに何を認めるのかを今一度確かめているのかもしれない。
『思う事を書けば良いのだが…。』
指先がペンを取ろうかと暫し迷う。伸ばされたままペン立てに届く手前で止まりすっと引かれた。視線がまた真っ白な紙の上に注がれ、ふと頬が綻ぶ。いったい何を迷っているのかと言いたげな自嘲を含む笑みが浮かんだ。
「何を…今更。」
今度は想いが口の端から零れた。しかしそれはあまりにも小さく、多分脇に控える文官にも届かなかった筈だ。
紙面をペンが走る。淀みなく流れる硬質な音。そこにことりと異音が絡む。また時が一つ進んだ事を告げる時計の針が動く音。ほんの半瞬、ジュリアスの目が時計に向けられ、だがすぐにそれは机上に戻された。サラサラと流れる音だけが室内にあった。
前日の夕刻のことだった。まさか同じ日に二度も顔を会わせるとは思ってもみなかった。本来なら決して聖殿から降りる時刻ではなかった。それでも定刻からは1〜2時間も経ってはいたが。隣室の前を通り過ぎようとした時、微かな灯りが漏れるのに気付いた。何があろうとも定刻には退出する隣人が残っているとは考え難く、ならば灯りを落とすのを忘れて帰ったのかと彼は秀麗な顔を曇らせた。
しかし良く考えてみれば、クラヴィスが先に屋敷に戻ってしまっても彼の元に長く仕える秘書官が戸締まりを怠り帰ってしまう筈もない。ジュリアスは確認の為にと扉に向かいノブに手を伸ばす。鍵は掛かっていなかった。引かれた扉は何の抵抗もなく開かれた。部屋の奥にあるデスクに灯る仄明かりに浮かぶクラヴィスの姿が見えた。
椅子の背に身を預け眠り込んでいるようだ。目を凝らすと珍しいことに机上に幾枚もの書類がのっている。一応は執務を行っていたらしい。だがやりつけぬ事に疲れて眠ってしまったのか。その寝顔が妙にあどけなく思え、ジュリアスは笑みを零す。仄かな優しげな微笑みを。
靴音を発てずに近寄り、声を掛けながら軽く肩を揺すってみた。突然のことにも関わらずゆっくりと開いた瞳は室内を覆う闇色を映して何時もより深く濃い紫に見えた。
「なんだ…、お前か。」
つまらなそうな声音が落ちる。
「何だではない。執務中に眠り込むなど、そなたの無神経さには呆れて言葉も持てぬ。」
「これは…もう終わった。」
机上に散らばる数枚を眺めクラヴィスはそんな事を言った。
クラヴィスの視線を辿れば、それらは翌日から出向く先の資料であるようだ。
「終わったなら尚更ではないか。こんな所でうたた寝などするから、すぐに欠勤する羽目になるのだ。」
「うるさい…。」
言いながらクラヴィスが微かに笑むのをジュリアスは見逃さなかった。もう何年も彼の口元が綻ぶのなど見たことがない。
そう思った途端、心臓がどきりと鳴った。何故そんな風に穏やかな顔をするのかと不思議に思ったが、理由に思い当たれば納得と訳もない寂寥が同時に胸にのぼる。
『クラヴィス様が祝言を上げられると言うのは本当なのでしょうか?』
あの時のオスカーの言葉が耳の奥に響く。クラヴィスにそんな穏やかな顔をさせる誰かが居るのだと、きっとあれは噂などではないのだと、同じ囁きが頭の中で渦巻いた。
「その…。そなたが具合を悪くすれば…。心を痛める者が…居るのであろう。」
もっと気を引き締めて自己管理を…。
「誰が…?」
突然意味の分からぬ事を言い始めたジュリアスをクラヴィスの一言が遮った。
「え?」
「誰が心を痛めるのだ?」
「それは…。」
ジュリアスは戸惑い言葉が詰まる。何故クラヴィスが問い返すのかが理解できない。
やはりあれは単なる噂であるのか、それともまた彼が意地悪く己にその一言を言わせようと惚けているのか。
「誰が心を痛めるのかと聞いているのだが…。」
探るようにクラヴィスが続けた。唐突とジュリアスの中に怒りにも似た感情が沸き上がった。どうしてそれを自分に言わせるのだと、悔しさの入り交じる混沌が胸を塞いだ。
「私が何も知らないとでも思っているのか!そなたが伴侶を得ると言う話は私も耳にも届いているのだ!」
思わず声を荒げてしまった。
「誰が…?」
また同じ問いが返る。ただ、今度のそれには怪訝な響きが含まれていた。
「そ、そなたは私をからかっているのか!?」
膨れ上がる激情にジュリアスの声は上擦り、握りしめた両手に更に力が込められた。
「私が…?伴侶を得る…?」
不思議そうに自身を見つめ、ぽつりと洩らした一言がジュリアスの耳に届く。
「誰が…そんな事を言ったのだ?」
どうしてジュリアスが声を上げるのか、どうしてそんな途方もない話で己が糾弾されるのか、クラヴィスに何が何だか分からなかった。
「…違うのか?」
顔を覗き込み尋ねるジュリアスはたいそう戸惑っているかに見えた。
「違うも何も…。何処からそんな話が持ち上がったのか…さっぱり分からぬが。」
ジュリアスを見つめるクラヴィスの瞳にも驚きと困惑があった。
「噂だったのか…。」
独り言のように言うジュリアスの様に思わずクラヴィスが声を発てて笑い出した。
可笑しくて仕方がなかった。己が誰かと婚儀を上げる噂を鵜呑みにして事の真偽も確かめず突然怒りだし、一人で声を上げ勝手に納得する彼らしからぬ様子が可笑しくもあり愛おしく思えた。
「当たり前だ。」
声を震わせクラヴィスは言い繋ぐ。
「相手も居ずに…どうして祝言を上げられるのだ?」
それを聞いたジュリアスの脳裏にまたオスカーの言葉が甦る。
『女性の姿を見かけたものですから…。』
あれも、あの者の見間違いだったのか?
新たな疑問が広がる。
聞いてしまおうか…?
ジュリアスが迷い、すぐに意を決しって某かの言葉を放つため唇が動くのとクラヴィスが何かに気付いたのは同時のことだったようだ。
「祝言を上げるのは、私の屋敷に居た娘だ。」
そう言いながら、すべての謎が解けたとばかりにクラヴィスは「なるほど…」などと呟いている。
「今朝、故郷(くに)に帰るのを送って行った。」
それに続く言葉はなかった。今度はジュリアスが笑い出したのだ。
一頻り、二人は笑いあっていた。
それも収まるとジュリアスは二言三言注意を述べた後何事もなかった風に退室して行った。残ったクラヴィスも書類を片づけ、少し遅れて部屋をあとにした。何かが変わったのか、それとも何も変わらなかったのか、彼らにも分からなかった。ただ屋敷に戻る道で頬を撫でた風がいつもより暖かく感じられた。そんな一日の終わりに起きた取るに足りない出来事であった。
続