*春雷*
=3=
夜が明けてゆく。
ほっそりとした手が窓にかかる帳をスルスルと引き開けるたびに、室内に残る闇の名残が消えてゆく。庭に面して並ぶ大ぶりの窓から入る明け切らぬ朝の輝きが室内を変える。もう一日の始まりが訪れているのだと。世界はまた新たな光に満ちあふれるのだと。幾枚かの帳を引き終えた時、彼女は振り返りにこやかな顔を見せた。
「今朝は随分早くに目が覚められたのですね?」
テーブルに組んだ両手に顎を乗せ、カーテンを開けてゆく彼女の背をただ眺めていたクラヴィスは小さく笑い「いや…」とだけ答えた。
「まぁ!」
大げさな仕草だった。手を腰に当て細い眉を寄せて彼女は怒った顔を作る。
「またお休みにならなかったんですか?」
小さな子供を諫めるような言い回しにクラヴィスは困ったとばかりに苦笑をもらす。
「これからお休みになるのでしたら、何かお持ちしましょうか?」
もう習慣となっている彼の就寝前の嗜みに作る酒精入りの飲み物の名を口にして、彼女はクラヴィスの答えを待つ。
また笑顔が現れた。クルクルと変わる表情が面白いのか今度はクラヴィスも穏やかな笑みを浮かべ軽く頭を振った。
「お前を見送ろうと思っているのだが…。」
思ってもいない言葉に鳶色の瞳が大きく見開かれ、すぐに零れるほどの笑顔になった。
「ありがとうございます。」
「こちらこそ感謝している。」
そう言った途端、彼女はフルフルと首を振り「とんでもありません!」と今度も大げさな身振りで恐縮してみせた。
「とても良くしていただきました。感謝しているのは私たちの方ですから。」
くるりと背を返し次ぎの窓に掛かるカーテンを開ける彼女の肩先で茶褐色の髪が揺れる。緩いウエーブを描く髪先がフワリと動く様をクラヴィスは黙ったまま見つめていた。
この娘が闇の館に上がったのは2週間と少し前。
守護聖の屋敷に勤める者達の中で勤続が数年にも及ぶのはごく少数でしかない。クラヴィスに仕える者も例外ではなく、長年つとめる執事を除けば長い者でも半年を越えることはなかった。これは仕方のないことで、外界とは時の流れを異にする聖地に長期間留まれば彼らが自身の生活に戻る時にはなはだ支障をきたす結果となるからである。何年もこの地で過ごした為に起こる弊害を避ける目的で守護聖に仕える者に限らず、宮殿や王立研究院などに勤める職員達も早いサイクルで変わらざるえないのだ。
それでも彼女がクラヴィスに仕えていたのは大変短い間であった。それはこんな理由からである。実は本来クラヴィスの側仕えとして新しく館にやって来るのは彼女の叔母である筈だった。ところが聖地へ向かう直前に叔母は軽い風邪をひいてしまった。どれほど軽い病であっても、聖地に上がるわけにはいかない。叔母が全快するまでの間だけならとこの娘が代わりにクラヴィスの元へやって来た。
小柄で痩身の娘はどう見ても14〜5にしか思えず、果たして守護聖の身の回りの世話が勤まるのかと訪れた彼女の幼さに周囲は眉を顰めた。だがよく聞いてみれば少女を思わせる外見とは異なり彼女は間もなく成人の儀式を迎えると言い、しかも翌月には婚儀を控えていると言う。しかも元来物怖じしない性格なのであろう、気むずかしいと評判の闇の守護聖を前にしても気後れすくことなく快活な物腰で細やかな気遣いすら見せた。
クラヴィスもそんな娘が殊の外気に入ったらしく、珍しいことに気が向けば夕刻の散策にまで連れて行くことさえあった。暮れていく森の湖や宮殿の周囲を並んで歩く彼らを目にした人々は、最初は驚いたがいつしかこんな言葉を囁くようになった。
『あの闇の守護聖が娘を伴って歩いていた。』
『娘は間もなく婚儀を迎えるという話だ。』
『闇の守護聖が側仕えの娘を伴侶にめとるらしい。』
他愛もない噂は羽根が生えたかに宮殿を駆け抜けた。流言は聖地に住まう誰もが知っているかのようだった。
知らぬのは本人であるクラヴィスと守護聖の長だけだったのかもしれない。
朝靄の立ちこめる木々の間をクラヴィスと娘は歩いて行く。
彼女は少し先を時に立ち止まり辺りを見回し、時に振り返ってはクラヴィスに零れるほどの笑顔を送った。その僅か後をクラヴィスは一定の距離を保ちつつのんびりと歩む。木立の切れる辺りには聖地の通用門があり、宮殿に仕える者、聖地を訪れる業者、その他諸々の者達がそこを使う。それは外界とこの楽園を繋ぐ扉であると同時に只人とそれ以外の者を隔てる関でもあるのだ。
だが守護聖を退任した者は此処を通るわけではない。その者は聖地の西の端にひっそりと在る専用の門をくぐるのである。恐らく守護聖の他には女王とその補佐官しか知らぬそれは、約束の日が訪れるまで決して開くことはない。すべてのしがらみから解き放たれた者のみがそこを抜けるからである。いつか己がそこを抜ける日に果たして誰かが見送るのだろうかと、クラヴィスは一人胸の奥で思う。多分誰にも送られずたった一人でこの地を去るのだろうと、常に頭の隅にあるその日を描き口の端に苦い笑みを刻んだ。
「クラヴィス様!」
娘の声がそんな想いを遮った。
「もう、この辺りで結構です。お戻りになってお休みください。」
遠慮がちにそう言いながら彼女は仄かな笑みを浮かべた。
「いや…。あの門まで送ろう。」
「でも…。」
「遠慮などしなくとも良い。これは…わたしの気まぐれだからな。」
「…はい。」
娘はこくりと頷き歩きだそうとし、不意に何かを思いだしたのか手に持った小振りの鞄から何かを取り出した。
「とても良くしていただいて、でも何もお礼を差し上げられません。もし良かったらこれをお持ち下さい。」
差し出されたのは掌に乗るくらいの小さな硝子瓶だった。中にはビーズに似た細かい粒が入っている。
「これは…?」
「石の粒です。」
おまじないなんです…。
言いながら彼女は少し恥ずかしそうに頬を染めた。
娘の家の近くには大きな河があり、その中央には中州があるのだという。河の流れが作り出したその場所の川底にだけある石の欠片は緩やかな水に削られ、そんな細かな粒になるのだ。
「川底を探して、同じ色で同じ大きさの欠片を99集めるんです。それを持っていると願いが叶うというおまじないなんですけど…。」
可笑しいでしょ?子供みたいですよね?
「でも、私は願いが叶いましたから。」
こんな石の欠片に縋るほど娘の願いは儚いものだったのか。
クラヴィスはその願いが何であったのかを尋ねようとしたが、結局何も聞く事はしなかった。彼の勘が正しければ、それは彼女の婚儀に関わる事柄であろうと思え、だから敢えてクラヴィスも尋ねる言葉を胸にしまったのだろう。
「ならば…貰っておこう。」
掌の小瓶をクラヴィスは大事そうに懐に仕舞う。その後で彼はたいそう嬉しそうにありがとうと言った。闇の守護聖があまり丁寧に礼を述べたので急にきまりが悪くなったのか、娘は小走りに先を急いだ。
屋敷に戻る道にはもうミルク色の靄はなく、雲間を割る淡い光が射していた。
別れ際に「ありがとうとざいました。」と深々と頭をさげた娘の仕草を思い出し、クラヴィスは小さく声を発てて笑った。本当に願いが叶うのだろうかと、懐にある小瓶に衣装の上から触れてみる。それがどれほど微かな望みであっても、叶うかも知れぬと思えるなら幸せなのだろうと凡そ自分らしからぬ事を思いうっすらと頬を緩めた。
例えそれが明け方の夢より脆く頼りない願いであったとしても…。
続