*春雷*

=2=

薄曇りの午後は緩い陽射しが聖地の見慣れた景観をどこか曖昧な眺めに変えるようだ。
常に温暖で穏やかな天候が保たれる筈のこの地が時折激しい雨に見舞われたり、今日のような色のない空に覆われるのも翳りをみせる女王のサクリアの為なのだろうとジュリアスは軽い嘆息を洩らす。長い守護聖殿に連なる廊下に、いつもなら等間隔に切り取られた窓とそれに挟まれる柱により作られる光と影のコントラストも今はない。窓から射し入るぼんやりとした陽光には、そんなくっきりとした陰影を描き出す輝きなどないのだ。
それは床の白大理石にただ細い帯を落とすにすぎなかった。窓外に植えられた木々の緑も何時になく沈んで見えた。
『まるで私の心中を映しているようだな…。』
光の守護聖はやはりどことなく頼りなげな顔でそう呟いた。



少し先を左に折れれば彼の執務室が見える筈だ。ジュリアスは歩きながらチラと窓の外に視線を送った。木立の間から建物に沿って歩く者が見える。身に纏う衣装からそれが誰であるかなど直ぐに分かった。西の車寄せからその者の執務室に向かっているのだろう。
そう言えば…。
彼の隣室にあたる部屋の主が今朝は出仕していなかった事を思い出す。こんな時刻に聖殿にあがる者など一人しか居ない。ひとこと言ってやらねば…。彼は歩調を早めた。角を曲がる僅か手前にあるテラスから上背のある人物が入って来るのを捉えると、ジュリアスは足早に距離を詰めながら良く通る声でその名を呼んだ。
背に流れる闇色の髪がサラサラと揺れ、その人は振り向く。切れ長の眸がジュリアスを見留る。美しい顔に不愉快だと言わんばかりの色が射す。眸の紫が俄に翳り、まるで何故こんな所にお前が居るのかと詰問するかに思え、ジュリアスは誰にも気付かれぬくらいの微かな吐息を零す。落胆だけではない、諦めを含むやるせない吐息を。
何事も発しないジュリアスに一瞥を寄越すとクラヴィスは急かされた様にその場を離れんと背を返す。
「クラヴィス。」
今一度声が飛ぶ。
「なんだ?」
感情の欠片も宿さない白皙がジュリアスに向けられた。
「今頃出仕するなど、そなたの了見はさっぱり理解できぬ。如何なる理由での遅刻か聞かせて貰おう。」
「理由などない。ただ…。」
「ただ?」
今、ジュリアスの目の前に立つ者の薄い唇からあの言葉が告げられたら、今朝ほど彼の腹心が洩らした流言を真実に変えてしまう何かが紡がれたとしたら。
クラヴィスの押さえた声音が発せられるまでの数秒が気の遠くなるくらいの長さに思えた。
「今朝は…気分が良くなかった。だから、先程まで休んでいた…。」
そんな事はある筈がない。
早朝の森でそなたを見かけたとあの者は言っていた。
誰か…。
私の知らない誰かと供に。
喉もとまで昇った想いは形にすらならずに、冷たい凝りとなって胸の奥深くに沈んでいく。
「そうか…。自己管理も守護聖の勤めだといくら言っても聞く耳を持たぬらしいが、執務に支障をきたさぬよう
心しておけ。」
「ああ…。」
おざなりな返答を残しクラヴィスは歩み去る。
悔恨と言う名の種子がジュリアスの心の奥底でまた大きくなった。どうしても伝えたい言葉は決して告げられず、言わずとも良い一言はいくらでも口の端に上る。遠ざかる墨色の背を見送りながらジュリアスはまた嘆息する。刻まれた互いの間にある溝は奈落より更に果てしなく深いのだと確信するしかなく、そこに吹く風は身を切るほども冷たい。
唐突と身体が震えた。まるで本当にその風が彼の中を吹き抜けたかに、ジュリアスは自身の腕で我が身を抱いた。その場に彼が立っていたのはほんの僅かの間であった。抜ける空を映す眸に再び鮮やかな光が戻り、彼は何事もなかった風に一歩を踏み出すと既に誰も居なくなった大理石の廊下に靴音を残し歩いていった。



自室の扉に向かいそれに手を掛けながら、一度ジュリアスは隣室に視線を送る。
闇の執務室の扉が見える。堅く閉ざされたその内にクラヴィスが居る。果たして机に向かっているのか、或いは机上にある責務の山を余所に私室に下がっているのかもしれない。何れにせよあの扉を叩く理由などなかった。なんの用事もなくクラヴィスを訪ねる術を知らぬジュリアスは、視線を戻し常と変わらぬ物腰で己の執務室の扉を押し開けた。
その部屋には煌めきがあった。
こんな厚い雲間から射す光であっても、採光を余すことなく取り入れるよう設計された室内には陽光のもたらす暖があった。戻った主に文官が礼を寄越す。それに軽く答えジュリアスはデスクへと向かう。やはり机上には午後から目を通さねばならぬ数々の決済が積まれていた。彼は生真面目な役人を思わせる仕草で丁寧にその一つを手に取る。引き寄せ、並ぶ文字を追う。一文字の持つ意味を理解せんと先まで進む視線がまた戻り、丹念に読み下す。もうこの時は、それまで彼の秀麗な面に在った曖昧な表情はすっかりと消え失せ、宇宙の恒久なる安定を模索する一人の守護聖の顔に変わっていた。
数枚の書類に数十分を費やしたのち、書面の最後に自身の名を記す。硬質な音が紙の上を走る。決済を終了した書類は同じファイルに挟まれ、ジュリアスは次ぎの一枚に手を伸ばす。淡い砂色の紙に認められたそれは守護聖の誰かに支持を与える書類であった。表に示された一つの名をみとめ、ジュリアスは少しだけ眉を寄せた。隣室にいるであろう守護聖の名が在ったからだ。
彼は迷った。今手にしているのはクラヴィスに宛てた出張の指示書である。数枚の束を繰りそこに書かれた内容に目を通した。出立の日時、出向く惑星の名称、滞在期間、そしてその星で彼が成さねばならぬ責務についての詳細が書かれていた。これを手にクラヴィスの執務室を訪ねれば、訪問の確かな理由が存在する。書類を手渡し、某かの注意を与えるのは全く不自然ではない。それら職務上の伝達を行ったのちに、二言三言ことばを交わすのもあり得る事だと思えた。
それに首座として、守護聖を束ねる長としてまことしやかに流れる噂の真偽を確かめるのは当然の事だとジュリアスは強く思った。そんな流言を吐かれるなど、そなたに隙があるからだと言ってやるべきなのだ。



しかし、ジュリアスはその後闇の執務室を訪れることはなかった。
クラヴィスに書類を渡し幾ばくかの注意を施すこともなく、もちろん最近流れる噂について彼と言葉を交わすこともしなかった。クラヴィスに宛てた指示書は何時も通り使者が彼の元に届け、無愛想な闇の守護聖がつまらなそうにそれを受け取っただけであった。
どうしてジュリアスはその妙案を行わなかったのか?
それを思いついた時、彼はたいそう瞳を輝かせまるで子供の様な表情まで浮かべていたものを。書類を手に持ち今にもデスクを離れんとしたその時、彼は気付いてしまったのだ。問いには二つの答えがあり、返されるそれが必ずしも自身の望むものではないという事に。
もし…。
仮にクラヴィスの薄い唇が微かに緩み、あの吐息にも似た声音でこんな事を言ったら、果たして己は何と言えば良いのかとジュリアスは自問した。哀しいかな、彼の自身に向けた問いに答えはなかった。
「いや、それは噂ではない。…誠だ、ジュリアス。」
そう言って、クラヴィスが微笑んだとしたら。





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