*春雷*

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霞のかかったような空であった。まるで自身とあの者の間にたなびく、その姿を時として曖昧にしてしまう。そんなボンヤリとして白味がかった空を、ジュリアスは何するでもなく眺めていた。



彼の執務室は採光を取り入れた、その名に違わぬ明るさの中にあった。
珍しい事にこの首座の守護聖が執務時間であるにも関わらず、続く私室の窓に凭れ視線を窓外に送っている。未だ決済の終わらぬ書類がデスクの上には堆く積まれ、いつもならこの午前も終わろうという時刻であれば、すでに終了していても不思議ではないのだが。彼が執務を滞らせるなど全く考えられぬ事である。
ジュリアスは光の守護聖であり、この聖地に於いて神にも等しいとされる9人の守護聖を束ねる首座なのだ。僅か5歳でその地位を継承し、それから20年余その名に恥じぬ事こそを自身の道としてきた。自身がこの世に在る理由は宇宙の為、女王の為、守護聖として生きる為と言い、その言葉に決して違わぬ生き様を見せてきたのである。それ故、心ない中傷を受けた事も数え切れぬほどあった。迷いのない決済に情の欠片も待たぬから出来うる決断だと言われ、執務の為ならば眉一つ動かさず惑星の消滅を行うと囁かれ、果ては彼は守護聖であり人ではないから、あんな速やかな決定を下せるのだと陰口を叩かれた。
しかしジュリアスはそんな言葉には耳を貸さず、やはり厳しくも美麗な面を崩すこともなかった。それらに周囲の者が憤り異議を唱えようとした時でさえ、平素と変わらぬ声音で「構わぬ、言わせておけば良い。」と静かに言った。その後で微かに笑みを浮かべ「一概に間違ってもいない…。」と続けたこともあった。彼を良く知る者であれば、そんな流言は誠に腹立たしい限りである。ジュリアスが他者に対し厳しく接する以上に己に対し厳格であるのは彼と一度でも職務を供にした者であれば、すぐに分かる筈である。また相手が道に外れた言動を行わぬなら、闇雲に叱責や糾弾などしないのは周知の事実だった。
何か問われれば丁寧に答え、平素は穏やかな物言いで人にあたる。ただジュリアスがどれほど心を痛め、悩みそれらの決断を導き出したかについて知る者は皆無に等しいのかもしれぬ。いや嘗てはただ一人居たのだが、それも今は居ないと言っても間違いではない。



渡る鳥もない空を眺めていたジュリアスは、視線を窓枠に置く自身の手に落とす。
彼が何にそれほど心を奪われたのか?
あの光の守護聖が瞳の輝きを失うほども。
如何なる悩みをその高貴な胸に抱くのか?
宇宙と女王に忠誠を誓ったその唇から儚い吐息を零すほども。



それは今朝方執務室を訪れた彼の腹心がふと洩らした一言であった。
聖地の宮殿に使える者の間に流れる取るにも足らぬ噂の一つ。オスカーは両手に抱えた書類の束をデスクに降ろしながら、当日の予定を確認し置いたファイルを項目別に分けつつ何気なくこう言った。
「クラヴィス様が祝言を上げられると言うのは本当なのでしょうか?」
届けられた書面の字面を追っていたジュリアスの蒼い瞳が上がった。彼は変わらぬ声音で、どういう意味だ?とオスカーに問う。
「そんな噂が流れているんですが、今朝ほど、宮殿に向かう途中の林でお姿を見かけたものですから。良くは見えませんでしたが、隣りに女性の姿があったように見えました。」
  オスカーを捉えていたそれが何事もなかったかに再び紙面に降ろされた。
「さぁ…、私は何も聞いていないが。」
手にしたペンが流れるように紙の上を走る。
「単なる噂だとは思いますが。」
オスカーは常と変わらぬ笑みを残し、自分の執務に戻るため退室していった。
『クラヴィスが…?まさか…な。』
書き終えた書類をファイルに挟みジュリアスは呆れた風に笑った。
あの闇の守護聖が・・・。
何かの間違えだと彼は思う。そうでなければやはりただの下らぬ噂だと。自分の生死にさえ興味もないと振る舞う闇の守護聖が伴侶を得るなど全く馬鹿馬鹿しい話しだと、もう一度ジュリアスは頬を緩めた。
『噂とは、実におかしなものだ…。』
口には出さず呟いたのち、彼は次ぎのファイルに手を伸ばし再び机上に広げた書面に視線を落とすのだった。射し入る陽光に伏せた金色の睫が煌めいた。



心が離れてしまう前は。まだあの光の庭で笑い合った頃は。互いの想いが手に取るように分かった。夕暮れ色の瞳に溢れる涙のわけも。シーツに埋もれ膝を抱えて夜を過ごす寂しさも。まるで自身の痛みや悲しみであるかの如く胸の内に流れ込み、そんな時手を繋ぎ見つめ合うだけで、癒され、許され、忘れられた。眠れぬ夜を幾つ越えたかを彼が知るように、己もあの小さな手のひらがどれほど温もりを求めていたかを知っている。
だから…。
もし彼が今度こそただ一つの安らぎを手にするなら。あれ程求めたものを得たというなら。それを与えるのが自分でなかったとしても。拒む謂われなどありはしない。
祝福を…。
この手で光の祝福を贈ろう。明日への希望にのせて。
微かな吐息を零し、ジュリアスはゆっくりとその場を離れた。あれを手放したのは自分自身で、離れ行く心を繋ぎ止める術を知らなかったのも己であると分かっているのに。何故、胸にある虚に風が吹くのか。自身の覚える欠落感はいった何なのかと、ジュリアスは誰にともなく問うのだった。





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