*Holy Garden*

=7=

中庭に漂うは乳白色の朝霧。
見慣れた景色を包み隠し、どこか別の場所に踏み入ってしまったかの錯覚を呼ぶ。微かに空気が動くと、その少し前まで何もないと思った辺りに突然立木が現れたりもして、しかし、逆にその見慣れている筈の物に妙に驚いたりする訳で。
見たい物が見えぬ、また、見たかった物が不意に現れ、それが不本意な姿形であれば見えた故に落胆したりする訳で。



王立研究院に向かい長衣の裾を捌きつつ歩を進めるクラヴィスは、気の焦りとは裏腹にそんな取り留めもない事を思うのであった。諦めと焦燥に手にした遠見の水晶を投げ捨てんと振りかざした途端、それは求めた姿を映しだしたのだがそこに在ったのは彼の願いとは異なる、いや、幾ばくかは予想していたものの、そうであってはくれるな・・と思考の片隅で祈ったにも関わらず、やはりその期待を裏切る姿であった。ジュリアスは負傷していた。
水晶球が彼を映したのはほんの数秒であり、クラヴィスにしてもハッキリと見てとった訳ではなかったが、ぐったりと身を横たえ蒼天の瞳を閉じたジュリアスは、傷を負っているとしか思えない。あの、何に対しても如何なる状況下にあったとしても、そこに針の先程の可能性でも見いだそうと努力する者が、あの様にじっと横たわる筈などないと考えたからで、動く事が出来ぬ状況に在るに違いなかった。早急にジュリアスの所在を確定し、助け出さねばならぬのは明確であった。だが、残念な事にクラヴィスの持つ手札にはジュリアスの今いる場所も、どうすればそこに行けるのかという術も書かれてはいなかった。
深く漂う朝霧に、未だ暁光の一筋は射していないのだった。



物心ついた時から言われ続けた、また教え込まれた中で自身より弱い者小さき者を守らねばならぬという教えに従ったのか、或いは人の持つ本能によるものか、だが間違いなくジュリアスにとって幼いクラヴィスは保護すべき対象であった。彼には想像も出来ぬ出生を周囲から聞かされ、初めて見た時には少女かと見まごう容姿、この聖地に召還された経緯を知れば尚のこと、己こそが守り導かねばならぬと思えた。勿論、クラヴィスも差し出された腕を迷うことなく取り、他者に向けるのとは異なる視線をジュリアスに返した。
ただ哀しいかな、人は常に変わってゆく生き物でそんな淡く優しい時間も長く続きはしなかった。クラヴィスがジュリアスを見なくなった、正確に言えば紫の瞳が光を纏う外見しか映さなくなったきっかけが、ジュリアスの思うように闇を司る者の性を受け入れたが為の結果とする推測は間違ってはいないが全く正しいとも言い難い。何故ならクラヴィスが感情を胸の奥深くに閉じこめた事実と、ジュリアスに対する拒絶には少しも関連が見留られぬからである。
それに対しジュリアスが導き出した結論は、彼の司る光とクラヴィスの纏う闇が相反する力であるからという、いささか短絡的な推量であった。二つのサクリアが同じ道を進めぬ運命と思いこむしかその時の彼には術がなく、そうする事で自身を納得させるのがジュリアスの出来る全てであったのかもしれない。それ以外考え得るものが無かったのが実のところであったが、もし互いが抱く特別な感情に双方が気付いたなら、こののちに二人が味わう事となる辛酸を回避できたかもしれぬが、今となってはそれも一つのたとえ話でしかないのだった。



いつしかジュリアスが差し出す何かは導きの腕ではなくなった。
より深い闇を見つめ、ともすればその深淵に飲み込まれるのではという懸念と、そう思う度に脳裏を掠める恐怖が現実とならぬ為に手にした光に目を向けさせたいと望むあまり、どれ程疎ましい顔をされようとも言葉を掛け時には腕を掴み、理不尽な怒りを投げつけたのだ。これは残念な事なのだが、ジュリアスが守護聖である自身と個人としての自身を巧みに生き分ける術を知らなかった故の行為であった。
彼の心中を「守護聖のあるべき姿」または「執拗な執務の強要」に込めていたのだが、受け止めるクラヴィスがそれを読みとれなくとも仕方のないことだろう。そして、それらの「伝わらぬ想い」は行き場所をもたぬまま、僅かに外れた時の振り子は徐々に振れ幅を広げながら、その日に向かって緩慢な時を刻んでゆくのである。



細く浅い息を何度か吐き、ジュリアスは閉じていた瞳を開いた。縁取る金色の睫が震え、再び閉じかけた瞼がゆっくりと上がる。目に入る物はやはり何一つ変わらず、落胆が秀麗な面に影となって落ちる。ただこうして待つしか出来ぬ自分に苛立ちながらも、ジュリアスは途切れがちになる意識を繋ぐべく、また記憶の深みに手を伸ばすのだった。
そして、引き出されるのは変わらぬ面影。片時も頭を離れぬ者との思い出。懐かしくも苦く、忘れようとも甦るそれら。
あれが、幼き日との決別の時だったのか…。
背に流れる濡れ羽色の髪がさらさらと揺れて、穏やかな顔のクラヴィスが振り返る様を思う。しかし、彼の視線の先に居るのは己ではなく、木漏れ日の中に立つ少女の笑顔がクラヴィスのそれを受けていた。偶然目にした光景が、その後ジュリアスの脳裏から消えるまで長い時を要すことになる。
この時彼が感じたのは「失望」と「悔しさ」であった。己の傍らに在ると信じていた片割れが選んだのは、図らずとも明るい黄金色の髪を持つ少女であり、在ろう事かその者は次代の女王になるやもしれぬ存在であった。ジュリアスはクラヴィスの行為を裏切りと受け止め、守護聖としてあるまじき行いと怒りを覚えた。供に手を携え宇宙と女王を支えると誓ったあの言葉を、目の前でクラヴィスに踏みにじられたのだと震える拳を握りしめた。
そして、残る理性の片隅で彼が既に自身の手元を離れ、己とは異なる道を選んだのだと理解した。守護聖としてしか生きる術をしらぬ自分と、守護聖であることから逃れる術を得ようとする片割れ。両者の歩む道は決して交わるどころか一歩進む毎に離れ、その間には奈落とも思える果てしない溝があるのだと知った。
それから幾日かのちに、同じ場所でジュリアスはクラヴィスに言葉を投げる。その日を境に二人の瞳に互いの姿が映ることはなくなった。
今思えば、あれは…。
『裏切りでも、何でもない。ただ、傍に居るのが私でない事が…。』
自嘲と言うよりは、どこか穏やかな柔らかい笑みを浮かべジュリアスは囁きにも似た呟きを零した。
そう、本当に欲しかったものが手に入らず、それを繋ぎ止める手段すら分からなかった自身の愚かな言葉が、あの優しく寂しがりの魂を闇の深みに追いやったのだと気付いた。すでに狂った振り子は更に大きく揺れ始めており、時を止める事は勿論戻す事など出来はしないと諦めた筈であったものを。
あれは、私に告げたのだ…。
心の奥底に秘めていた…その想いを。



風など吹いていなかった。
それなのに、この場にいる筈もない者の香りがジュリアスの鼻孔に流れ込んだ気がした。





Please push when liking this SS.→CLAP!!