*Holy Garden*
=2=
何かが起こるということはほんの些細な偶然が、たまたま同じ時に身を置いてしまうからではないだろうか。個々に起きたなら取るに足りぬ事象が、重なり絡み合って誰をも驚愕させ竦ませる大事に至るに違いない。起こるべくして起きることなどありはしない筈で、それ故誰にも止められぬのかもしれない。
午後も早い時刻、滅多に開かぬ闇の執務室の扉が開くと、それもまた珍しいことに昼なお墨色を纏う闇の守護聖が音もなく眩い陽光の射す廊下に姿を現した。彼は後ろ手に扉を閉じ、そのままゆっくりとした足取りでその場を離れようと歩み出す。クラヴィスは気付いていなかったようだ。すこし距離を置いて隣り合う執務室の前で、彼に視線を送る者がいることに。
「クラヴィス!」
突如背に掛かる声に立ち止まると、背後から衣を裁く音と足早に近寄る靴音が聞こえた。
「クラヴィス、何処へ行くのだ。」
今一度名を呼ばれ、彼は渋々振り返る。己の名を声高に呼ぶ者が誰であるのかが分かったと同時に、間違いなくこの後何を言われるかも分かってしまったからである。
自分に向かい真っ直ぐに歩み寄る者の投げる、痛い程も真剣な眼差しを受け、クラヴィスはやれやれと肩を竦めてみせた。彼はその時明らかにしまったという顔をしていた。悪戯を見つかった子供のそれに似た表情は、恐らく今クラヴィスを呼び止めたジュリアス以外には見せぬ貌であろう。向き合う二人の身長はほぼ同じくらいで、ジュリアスは正面から相手の瞳を捉えもう一度何処へ行くのかと訊ねた。
「屋敷に…帰ろうと思ったのだが。」
視線を外しボソボソと答えるクラヴィスに、ジュリアスは呆れてものも言えぬとばかりに声を上げた。
「執務終了まで、まだどれ程時間があるか分かっているのか!それとも、職務を置いてでも帰らねばならぬくらい火急の用事か。」
「いや…。そうではないが、もう…することが無くなった。」
する事がない??
ジュリアスは瞠目し視線だけでなく顔まで逸らすクラヴィスの白皙を覗き込む。今朝クラヴィスに回った書類の量はジュリアスが一番よく知っている。この時間にすべて片づけるなど、いくら彼がやる気を起こせば自身と変わらぬ能力を持つと認めているとはいえ、こなせる数ではない。クラヴィスがやることがないと言っているのは、全部を終わらせもう仕事がないのではなく、とりあえず至急のものは片づけたが、それ以外は目を通しもせず、多分デスクの中にしまい込んだということなのだ。まさかジュリアスとはち合わせするとは思っていなかったのだろう。勝手に終了を告げ、そそくさと屋敷に戻ろうとしていたのだ。
「そなたという奴は…。」
ジュリアスはたたみかける様に言葉を続ける。
それより、お前…。
突如クラヴィスが口を挟むのは、この話から話題を逸らそうといういつものやり口だ。そんな手には乗らぬとジュリアスも更に語気を強める。使い古しのやり口にそうそう引っかかるものか、と彼は思う。だが、以前には考えもしなかったやりとりに、ジュリアスは知らずと口元が緩んでいた。
少し前、互いの想いを知らずに過ごしていた頃は、こんな風に言葉を幾つも交わすことなどなかった。ジュリアスが何を言おうとも冷ややかな眼差しで一瞥した後、何も言わずに、或いは「うるさい。」と一言を残し、クラヴィスはその場から足早に遠ざかるだけであった。
例え怒りにまかせ手を上げたとしても、それがどれほどの事かと冷視し、お前には一遍の興味もないとでも言うかに視線そらすのであった。その先に何があるのかジュリアスが知り得ないほど遙か彼方に向けて。
しかし、今はどうだ?
筋の通らぬ言い訳を並べたと思うと、何をそれほど怒るなどとからかい、果ては黙れとばかりに唇を塞いでくる。しかも、畏れ多いことにそれが宮殿や執務室に於いての行為だったりする。いつから、こんな食えぬ男になったのかと、ジュリアスは胸の奥に一つ嘆息を落とした。
「どうかしたか?」
不意に言葉を切ったジュリアスに、クラヴィスが怪訝そうに声をかけた。
「いや、何でもない。」
再び抜けるような蒼い瞳に鋭利な光が宿る。
「そなた、今朝私が送った指示書にも目を通していないのか。」
「指示書…。」
口の中で小さく呟き、一応思い出す素振りをしてはいるが、クラヴィスがそれを見てもいないのは明らかである。
「私はこれから所用で主星に降りる。夕刻には戻るゆえ、それまでそなたは私の代理として、その間の執務を執るよう指示が出ている。早々に退出などもっての他だ。」
「成る程…。」
頷いてはいるが、どう見てもその顔は迷惑だと言っていた。
「とにかく、席に戻れ。何もせずとも私が戻るまで執務室を開けることなどするな。」
「ほぅ…。」
僅かに柳眉が上がった。悪戯な笑みを浮かべクラヴィスは眼前の蒼天の瞳を見返す。
「何もせずとも、席を空けねばよいのだな?」
「そう言う意味ではない!!」
ジュリアスの透ける白さの頬が俄に紅く染まった。可笑しくて仕方がない、クラヴィスは肩を細かく震わせる。日々、飽きることなく繰り返されるたわいもないやり取り。嘗てただ一人薄闇に捨てていた己の心をこうして確かにジュリアスが受け止めていると思えるのは、実はこんな取るに足らぬ時なのかもしれぬ。
眼前で未だ小言を言い繋ぐジュリアスを眺め、クラヴィスは緩やかに口元を綻ばせた。
「もう、良い。」
いつまでも笑いを収めぬクラヴィスに、焦れた一言が放たれた。
「良いか!私が戻るまで必ず待っていろ。」
背を返したジュリアスの蜜色の髪が光を弾き、眩しいほどの煌めきを放ち揺れながら遠ざかる。ほんの一時、それを見送ったクラヴィスが、半ば俯いて自室に戻ろうとした時、長い廊下に再びジュリアスの声が響いた。
「クラヴィス。今宵は私の屋敷に来るといい。薔薇が…盛りなのだ。」
ああ…。
今日は金の曜日。ジュリアスも勿論クラヴィスも、明日の執務はない。酒を酌み交わし、月明かりのもとで薔薇を眺めるのも良いかも知れぬ。そして、僅かに開いた窓から流れ込む花の香とともにあの暖かな躯を抱くのも悪くはない。自身の思いに彼は一度頷き、満足げな笑みを刻んだ。
薄暗い自室に入り、デスクに腰を下ろすと、クラヴィスは椅子に背を預け瞳を閉じた。
『あれが戻るまで…一眠りするか。』
ジュリアスの耳に入れば間違いなく激怒する一言を胸の中に落とし、クラヴィスは5分と経たぬ間に深い眠りの底へと沈んでいった。
続