*Holy Garden*
=15=
「約束を反故になどしたら…大変な事になるな。」
数分の間、閉じてしまった出口を見つめていたクラヴィスがジュリアスに視線をもどし、そんな事を言う。長い指がまた滑らかな額に触れ、乱れて顔に掛かる金色の前髪をそっと払った。
「お前の小言を、どれ程聞かねばならぬのかと思うと…恐ろし限りだ。」
大げさに肩を竦ませクラヴィスは笑った。
「当たり前だ…。」
ジュリアスもそう言いつつ笑みを返した。
「私が戻るまで…待っていろと言ったのに、それすら守れずに、こんな所まで来て…。」
また同じ文句を言ってジュリアスは顔を曇らせた。
「その上、約束まで破ったなら、ただでは済まなぬ…か?」
ひんやりとした掌が熱い頬を包む。とても大事そうに。ふんと鼻先で笑うジュリアスが「当然だ。」と頷く。
「そうだな…。」
ゆっくりと腰を上げたクラヴィスがくるりと身体を返し、時空壁から僅かに離れた辺りまで歩を進め、ジュリアスをその場に降ろした。
何をするのかとジュリアスの蒼穹の瞳が問いかけるが、クラヴィスは相変わらず優しげに笑んだまま金糸に包まれた頬に唇を落とすと踵を返し再び先程いた場所に戻って行った。ジュリアスは瞳をこれ以上大きく開けぬくらい見開いてクラヴィスの姿を追った。時空壁に向かって立つクラヴィスの背を見つめていたジュリアスが突如声を上げた。
これから彼が何を行おうとするかが分かるのと同時に、つい半時間前に感じた振動が何によるものなのかを理解したからだ。閉じてしまった壁の穴を開けたのはクラヴィスであり、それは彼が大質量のサクリアを放ったからに他ならない。惑星すら瞬時に消すくらいのサクリアであの時空壁を破ったのだと思った途端、ジュリアスの全身は恐怖に竦み上がった。
クラヴィスの行為がその身体にどれ程の負荷を与えているかを最も知るのはジュリアスである。放ったサクリアがいかばかりな物かは分からなかったが、どう考えても少ない量であるはずがない。しかも、クラヴィスは今同じ事をしようとしている。
「クラヴィス!止めろ!!」
その声が届かぬ筈などない。それなのにクラヴィスは振り向きもせず、左手を掲げ仄かに輝く光球を作り始めていた。
この行為に二度はあり得ない。そんな事はクラヴィスにも分かっていた。主任研究員より言い渡された事項の中にその文字を見ずとも彼自身がもっともその危険性を熟知していたからである。一度目は成功の確固たる自信があった。しかし続けて二度の放出の際にもしも集中力がわずかでも途切れたら、また掛かる負荷に彼が耐えられなかったなら時空壁を破るどころかこの閉鎖された空間から戻ることすら不可能となる。
仮に突破できたとして、負傷したジュリアスを抱えゲートまで戻れるかも疑問であった。だからクラヴィスも連続で行うなどするつもりではなかった筈だ。聖地に戻れたならきっとジュリアスは己を叱責するだろうと手のひらに集まるサクリアの煌めきを見つめ、クラヴィスは口元に自嘲の笑みを刻んだ。
何故あんな無謀な事をしたと、ジュリアスは自分を責めるに違いないと思いつつ、でもすでに彼の決意には微塵の迷いもなかった。ジュリアスは戻ろうと言ったのだ。ならば二人して戻る以外の道などない。ジュリアスの望みはクラヴィスの望みと同義である。恐らく彼の視線の先には眩い聖地の景観が見えていたのだろう。
離れた場所に横たわるジュリアスにも圧倒的な質量のサクリアが集まる時の、風圧にも似た力が感じられた。視線の先に立つ黒衣の背に垂らす髪が風に靡く様に煽られ巻上がる。
「クラヴィス!!!!」
絶叫にも思える叫びが上がった。音のない時空にそれは虚しく響くだけであった。もう、クラヴィスを止める者など居ない。例えジュリアスが渾身の力を込め立ち上がりその腕を掴んだとしても、彼は止める事などしなかっただろう。
俄に強い輝きがジュリアスの目を射る。堪らず彼は瞳を閉じた。あの時感じた大地の震えが再びジュリアスを揺らした。開いた双眸に飛び込んだのは、霧の様に立ちこめる白色の帳。その中に佇む長身の影。確かに出口が開いたのを確認したクラヴィスが振り返るのが見えた。
何事もなかったかに、彼はジュリアスの元に近寄り伸べた腕にその身体を抱き寄せた。瞬きもせず見つめる蒼い瞳が隠せぬ不安に揺れている。震える唇が一つの名を呼ぼうと薄く開かれた時、それは降りてきた唇に柔らかく塞がれてしまった。
互いの唇の感触を確かめ合い、その温もりに安堵する。しかし、それは深く重なる事はなく瞬く間に離れていった。
「続きは戻ってからだ…。」
子供を諭す様な言い回しでクラヴィスが囁き、未だ何か言いたげなジュリアスを抱き上げた。
欠落した壁を抜け、確かに見覚えのある回廊に出ると二人の唇から同時に緩い溜息が洩れた。僅か前方には光の扉があり、その先には間違いなく聖地の風景が広がっている筈である。ジュリアスが愛し、クラヴィスが牢獄と忌み嫌う常春の楽園が。
「クラヴィス…?」
徐々に大きくなるゲートに視線を向けたままジュリアスが言う。
「なんだ…。」
前方を見据えたままクラヴィスが答えた。
「やはり、そなたからは目が離せぬ。何をやらかすか分からぬから…。」
「折角助けてやったのに…、礼を言わぬばかりか…すぐに小言とは…。」
全くお前は情が薄い…。
そう言いつつもクラヴィスが笑うのを見て、ジュリアスは次ぎの言葉を胸に納めた。クラヴィスが自分を求めあの場所に現れたのを見た時、どれ程嬉しかったかなどと、決して言ってやるものかと思い唇を軽く引き結んだ。
「あれが出来るのはわたししか居ないと、皆が言うので仕方なく来てやったのだ。それに…。」
クラヴィスが何かを言いかけた時、光の扉が音もなく開き二人は吸い込まれるかにその中に消えていった。
彼が言わんとしたのは、一体どんな言葉だったのか?恐らく、普段なら決して言わぬ様なそんな一言だったに違いない。例えば…。
「お前が居なければ、わたしの在る意味もない…。」
或いは…。
「お前と共にと、決めているから…。」
あの幼い日に立てた誓いを告げる言葉であった筈である。
ゲートを抜けた彼らを迎えたのは、沸き上がる歓喜に揺れる人々であった。或る者は言葉にならぬ声を上げ、また或る者は駆け寄り笑みを寄越す。その中をクラヴィスは言葉もなく抜けて行く。ジュリアスを腕に抱いたまま、退屈な日常に戻る為に。
///////////////////////////////////////////////
上空には幾ばくかの風があるようだ。
薄く切れ切れの雲が流れ、時折月の白い光を遮っては過ぎてゆく。暫し、ただ宙に視線を向けていたクラヴィスが何かを思い肩越しに後を振り返る。窓から伸びた青白い帯の先にジュリアスの眠る姿があった。耳を澄まさねば聞こえぬくらいの密やかで安らぎに満ちた寝息をたて、ジュリアスはもう遙か夢の彼方にいるのだろう。今、彼の安息を阻むものなど何もない。
ゆるりと長身が窓辺を離れ、先程と同じ様に音もなく室内を行く。もう一度寝台の脇に立ち、穏やかな寝顔を静かに見下ろした。シーツに広がる金色の髪にそっと指を滑らせ、また彼は同じ事を言う。
「お前は、何を見たのだろうな?…ジュリアス。」
喜びに湧く人々の間を縫って研究院医療棟に向かうクラヴィスに、不意にジュリアスはこう言った。半分夢の中に居るような曖昧な顔で、しかし開いた瞳は確かにクラヴィスを捉えて。
「我らが…何故、供に在るのか…分かった気がする。ずっと以前から、私もお前も…想いは変わらなかった。そう…思った。」
唐突とそんな事を言い、ジュリアスは大層嬉しそうに笑んだ。零れる程も鮮やかな笑顔をクラヴィスは眩しそうに見つめた。
ジュリアスの笑顔を思い、クラヴィスもやはり笑みを浮かべた。あの静寂の中で見た何が彼にそんな顔をさせたのかは見当も付かなかったが、あれほど幸せそうに微笑むならきっとそれは自分にも優しい気持ちを運ぶに違いないと思えたからだ。
また、甘く濃厚な香りが流れ込む。柔らかな頬に軽く唇を当てたのち、クラヴィスはゆっくりと部屋を後にした。
『明日…聞いてみれば良い。』
眩しいほども光に溢れた、退屈で幸せな朝の一時に・・・。
///////////////////////////////////////////////
ハラリと落ちた前髪を掻き上げ、彼は手にした紙面の文字を丹念に追っている。
届けられた幾枚もの書類に書かれた報告を読み進むジュリアスは、いつもと変わらぬ首座の面もちであった。だが、ここは彼の執務室ではなく、身に纏うのは上質な絹の部屋着であった。あの事故から十日経った今も、ジュリアスは私邸に於いて静養している。しかし、サクリアを纏う身である彼は常人よりも遙かに回復が早いわけであり、こうして寝台に起きあがり日々の報告に目を通すほどである。
ただ、未だ立ち上がり歩行に及ぶまでには至らず、彼にとっては甚だ不本意であるに違いないが執務に就くのはもう少し先であるようだ。読み終えた書類を脇に置き、次ぎの一枚を読み始めた時彼の顔が俄に曇った。認められる文字が伝える内容がジュリアスにそんな顔をさせたのは明かである。
一体何が書かれていたのか?
それは各守護聖がこの日に行う職務が示された紙片である。ジュリアスが補佐に当たるルヴァに頼み込んで、毎朝手元に届く運びになっている。その一行目には「闇の守護聖--欠勤」とあった。事故から三日目の朝、ジュリアスはクラヴィスの欠勤を知る。提出されたそれに書かれた内容に彼は瞠目し、僅かの間訪れた使者に返す言葉もなかった。
取り急ぎ宮殿に戻る使者に労いの言葉を掛け見送りながら、ジュリアスはもう一度手元の紙片を読み返した。事故の当日ジュリアスを医療棟に運び、治療の済んだ彼を私邸まで連れ帰り、ジュリアスが眠りにつくまでその傍らで見守ったクラヴィスは夜も遅い時刻に自身の屋敷に戻った。すべてが終わった安堵にそれまで張りつめていた緊張の糸が断ち切れたのだろう。私邸に着いた直後、クラヴィスは昏倒しそのまま床に臥したのだと言う。
無理もない事であった。大質量のサクリアを連続で放出したのだ。ジュリアスが最も心配していたことである。あれから幾日も過ぎたが、未だクラヴィスは聖殿に上がっていない。勿論、彼はこの部屋にも姿を現さない。自身が出向く訳にもいかず、ジュリアスは一枚の書面でその様子を知るしか術がなかった。
闇の館に使いを出してもみた。でも、もたらされた伝言は主治医からの言づてのみであった。今日もクラヴィスは休んでいる。ジュリアスは哀しげに瞳をふせ、小さく溜息を吐いた。あの場合ああするしか無かったのは分かっているし、クラヴィスの行為を責めるつもりもない。ただ単に彼が心配なだけで、出来ることなら一目会いたいと願うのみである。
顔を見て、何か言葉を交わしたかった。
ありがとう…と一言を告げたかった。
埒のない思いに囚われた自身に気付き、ジュリアスはまた嘆息を落とすと再び文字を追い始めた。
庭に向かう大きな窓には薄いカーテンが引かれている。それでも室内には高く昇り始めた陽の光が満ちていた。窓はすべて閉じられている。風など入る隙間もない。
風など…。
入るはずのない外気が流れ込み、ジュリアスは驚いてその方に視線を放つ。大きく揺れるカーテンを捌き、庭から入り込む者がいた。羽織る上衣が風に煽られるのを鬱陶しそうに引き寄せ、クラヴィスは真っ直ぐにジュリアスに歩み寄ってきた。閉め忘れた窓から吹き込む風に気付き、一度戻りそれをしっかりと閉じる。
「思ったより風が強い。」
無造作に髪を掻き上げながらクラヴィスはベッドサイドにある椅子を引き寄せた。顔を覗き込み「具合はどうだ?」と問うその姿をジュリアスは惚けた様に見つめているばかりだった。
「まだ…痛むか?」
長い指が頬に触れ、ジュリアスは我に返る。
「そなた、こそ…。」
随分と小さな声が意外だったのか怪訝そうに柳眉があがる。
「屋敷の者がうるさくて、なかなか来る事が出来なかった。」
彼が突然庭から現れた理由がこの一言で明確になった。
「屋敷を…抜けだしてきたのか?」
有りそうな事である。クラヴィスならそうするに違いない。ジュリアスは困った奴だと言わんばかりに苦笑した。
「また、そんな子供の様なことを…。」
伸べられた手が濡れ羽色の髪を撫でる。
「顔を見たら、すぐに戻るつもりだ。」
折角、抜けだして来たのにここで小言を食らってはなるかと、クラヴィスが取り繕う様が可笑しくてジュリアスは肩を震わせ声を出して笑った。
「まぁ、兎に角…。」
椅子から寝台の端にかけ直したクラヴィスは言いながら顔を寄せた。キシリと乗せた重みに軋む音が鳴る。
「お前の顔を見て…。」
吐息に揺れる声が耳に優しい。ゆっくりと腕が肩に掛かる。
「こうして…。」
次ぎの言葉は無かった。
頬にクラヴィスの髪がサラリと掛かる。
求め合うかにジュリアスも顔を寄せ、瞬く間に唇が重なった。ただ、唇を合わせるだけの口付けである。互いの唇の温もりが心地よく、何故か懐かしく、それを感じる今がどれほど幸福かと思えば離れるなど出来ないとそれは触れあうのだった。
そう言えば…。
鼻孔に流れ込むジュリアスの香りを感じつつ、クラヴィスはまだ訊ねていない一言を思い出した。
この幸せな時間にあと少し酔った後に聞いてみれば良いのだと胸の奥で呟いて、肩に置いた腕をそっとジュリアスの背にまわすのだった。
その後…。
庭に向いた窓から二人で薔薇を見よう。ジュリアスの愛する高貴な花を。長く深い口づけの余韻に浸りながら互いの温もりを抱きしめて。
退屈な日常は確かに此処にあり、失ったものなどありはしないのだから。
了