*Holy Garden*
=14=
閉じてしまった直後、クラヴィスの眼前にはまだうっすらと欠損部の名残があった。
しかし、それすらまるで壁の中に吸い込まれるかに消えてゆき、今はほんの少し前までそこに出口があったことさえ分からなくなっていた。彼が呆然とその場所を見つめていたのは数分の事であったが、その僅かな時間に彼の内に沸き上がった感情は恐ろしい勢いで脳裏を駆けめぐった。事故の一報からジュリアス発見までの焦燥、その後の怒りと苛立ち。音のない世界を歩きながら己に向けた自戒を言う名の刃。そしてやっと見つけたジュリアスの痛ましい姿に感じた悲しみと後悔。でもそんな思いの総ては光に溢れる聖地に戻った途端に浄化され、いずれは懐かしい思い出に変わるはずであった。
ただ立ちつくすクラヴィスに最後に訪れたのは途方もない消失感であった。ジュリアスに苦痛まで強いて辿り着いた先には絶望の二文字が刻まれていたのだ。この道は例え微かであっても希望に続いていると思っていた。
「これが、答え…か。」
呟きつつ、彼は腕に抱くジュリアスの顔を見る。
自身の胸に頬を寄せ、浅い呼吸を繰り返すジュリアスは眠っているようであった。その表情はこんな状況であるにも関わらず、たいそう穏やかで何もかもを自身に預ている様に思えた。夜を供に過ごし、腕の中で眠るジュリアスを数え切れぬくらい見つめてきたが、これほど柔らかく安心しきった寝顔を見せるなど珍しいとクラヴィスは暫し無言のまま美しいそれを眺めていた。
光の扉をくぐる時、もしジュリアスを見つけられなければこの空間に残るつもりであった。それは何も最初から諦めていた訳ではなく、一人で戻るなど考えてもいないと言う意味であり、戻る時は二人でなければならないと決めていたからだ。
それ以外は考えてもいなかった。まさか此処まで来て…。不意にクラヴィスの胸に今まで影を潜めていた闇の声が響いた。
『このまま…たった二人で此処に留まるのも良いのかもしれぬ。』
音のない世界でこうしてジュリアスを見つめたまま朽ちていくのも悪くはないと、クラヴィスの奥底に隠された負の感情が俄に大きくなる。
自身にサクリアが目覚めた時のことなど、あまりに遠い記憶でありすぎて今となっては朧気にも思い出すなど出来ない。ただ歳を重ね自我が芽生え始める頃確かに分かったのは、己の内に息づくサクリアと言う名の禍々しい力こそが自分の足に填められた枷であり、もし本当にこの聖地から逃れようとするなら自身の手でその足首を切り落とす他にないのだという事であった。
それが何を意味するのかなど、勿論分かり切っていた。自身でその命を絶つ以外の何ものでもない。それは、そう言う事である。夜の闇に呑まれそうになり、喘ぎ、恐れ、何かを掴もうと虚空を掻き目覚めた寝台の上で、古い引き出しの奥に仕舞った刃の冷たい輝きに幾度手を伸ばそうとしたことか。実際に何度かはそれを手にとって見つめたりもした。
それでは、何故未だに彼はこの地に留まっているのか?
守護聖がその命を己が手に掛ければ、宇宙の裁きに引き裂かれ魂すら残らぬ塵と変えられるのを恐れたからだろうか?
それとも、やはり自身の喉もとに刃を突き立てる直前に残る理性が最後の一振りを思いとどまらせたからなのか?
いくら守護聖と崇められても所詮人の子である。様々な理由があったに違いない。それは当然のことだ。そうした人間なら持ち合わせる死と直面することへの恐怖や躊躇い以外に、彼があと一歩を踏み出さなかった何かがあるとするなら、それはもう言わずもがなである。例え彼が決して手に入れられぬ煌めきであったとしても、それが彼の地にある限り神々しい光の道を歩む者の行く末を見守るのだと自分に誓ったからである。
しかも、奇跡かと疑った互いの想いを交わしたのちであるなら尚更であろう。眼前に輝く希望の光が底なしの闇に沈もうとする彼を陽光の下に留めたのである。それでも、確かにクラヴィスの体内に闇はある。ふとした折りに闇はゆるりと鎌首を持ち上げ、宿主を深く静かな安息に引き入れんと魅惑の声を送る。今もそれは優しげに囁く。
甘美な響きは絶望に打ちひしがれるクラヴィスにとって抗しがたい誘いであった。もし仮に某かの手段で聖地に戻ったとして、果たして自分とジュリアスは幸せなのだろうかとクラヴィスは自問した。戻ればまた平穏な日常が待っている。退屈にも思える日々の暮らしがジュリアスにもたらすものは、重責と苦悩と自戒なのではないかと誰ともなしに問いかける。
守護聖として生を生きるのは、悲しみと別離に向かう果てしない道でしかないのではと疑えば、それこそが真実だと思えてくる。それなら、何もかもから解き放たれ、穏やかな笑みを浮かべるジュリアスを腕に抱き、果てしない孤独と安息に身を任せる方が幸せだと言えるのではないか。
いや…それ以外に道はない。
既に心の虚に忍び込んだ漆黒の誘惑は彼に他の選択を失わせていた。クラヴィスは疲れたようにその場に膝をついた。
「ジュリアス…。」
囁くほども優しげにその名を呼ぶ。長い指先が零れる黄金色の髪の上を滑り、愛しげに幾度も梳き流した。この美しい面に二度と苦悩と孤独の翳りが落ちぬのだと思い、腕の中の躯をしっかりと抱き直した。微かな呼び声が届いたとでもいう様に閉じていた瞼がゆっくりと開いた。自身を見つめるクラヴィスの不確かな表情を不審に思ったのか、ジュリアスは訊ねた。
「どうしたのだ…?」
出口を求めていた筈のクラヴィスが自分を抱いて座り込んでいるのだ。ジュリアスが怪訝に感じるのも不思議ではない。しかしクラヴィスは何も言わず、得も言われぬ優しい顔で見つめるばかりである。
彼はもう何も言うつもりもなかったのだ。次ぎにジュリアスが何かを言おうとしたら、その唇を塞ぎ気が遠くなるくらいの口づけをしてしまおうと決めていた。ジュリアスは少し困った様に眉を寄せ、桜色の唇が某かを形作ろうとした。クラヴィスは静かに顔を寄せ、己の唇を落とそうとする。
「クラヴィス…?」
唇が触れるより先に名を呼ばれ、クラヴィスはほんの半瞬それを躊躇った。
「早く戻らぬと、約束が流れてしまう。」
「約束…?」
思わずクラヴィスは問い返した。
「忘れたのか?」
眉間に微かな皺を作りジュリアスは怒った風を見せた。
「薔薇が・・盛りだと、言ったではないか。」
そう言ってジュリアスは心から嬉しそうに微笑んだ。
「…ああ、そうだった。」
頷き、笑みを返したその時クラヴィスの胸に巣くう暗黒の誘いが俄に薄れるのが分かった。
心の虚に満ちた闇が射しいる光に焼き払われたのだろう。道の果てにあるのは、絶望でも悔恨でもなかった。暗い道先を照らす輝きはクラヴィスの腕の中にあったのだ。
「お前と供に…夜を過ごす約束だったな。」
一度、軽く唇を合わせたのち、クラヴィスは顔を上げ眼前に在る壁を見据えた。彼は今自身に出来る何かを決めたのだ。
続