*Holy Garden*
=13=
自身を覗き込むクラヴィスが沸き上がる安堵にゆっくりと笑むのを見ながら、ジュリアスは初め微かに頬を緩め、しかしそれは直ぐさま厳しい表情の下に沈んでしまった。見開いた瞳に宿る強い光が何によるものなのかなど、訊ねなくともクラヴィスには容易に理解できた。どうしてお前が来たのかと言っているのだ。それもたった一人で。そう責めているのだろうとクラヴィスは思い、だがそんなジュリアスの気持ちに気付かぬ素振りで横たわる傍らに静かに膝を付いた。
「待たせたな。」
言いながら長い指が気遣わしげにジュリアスに触れた。
頬の線を辿り、蜜色の髪を撫でようとしたそれがピクリと震え動きを止める。左肩の下になる金の髪が決して少なくない流血に今はどす黒く染まり、緩く波打つ一房が見るも無惨な塊となっているのを見留たからである。それに軽く触った頬がやけに熱かった。発熱しているのは間違いない。黒絹の上衣をサラリと脱ぎ、クラヴィスはそれでジュリアスの躯をそっと包んだ。
「痛むか…?」
その声は切なく哀しげに聞こえた。
「いや…。」
そう答えるとクラヴィスが訝しげに眉を上げる。自身の答えが彼を気遣う故の虚言に思われたのだと思い、ジュリアスは小さく「痺れて…何も感じないのだ。」と続けた。
紫の瞳に不安の翳りが射すのに気付き、ジュリアスは薄い笑みを浮かべながら更に「大した事はない」と言おうとするが、思い直したのかその言葉は唇から放たれる事はなかった。多分、自分は今「大した事でない」状態には見ないのだと瞬時に判断したからであろう。言えば更にクラヴィスの不安を煽る結果になると思ったのだ。
「…そうか。」
クラヴィスは軽く頷き、まるで硝子細工に触れるほどもそっとジュリアスの身体に腕を廻しゆっくりと胸に抱いた。
その時ジュリアスの唇から苦しげな呻きが洩れ、腕に抱いた躯が強張るのが分かった。もしかしたら動かしてはならぬのではと新たな嫌疑が起こる。でも今はこうして運ぶしか方法がない。
「すまない…少し我慢しろ。」
更に哀しく苦痛を孕んだ声音がそう言った。
「ああ…。」
ジュリアスは済まなそうに微笑む。そして黒衣の胸に頬を寄せた。
殊更ゆっくりと歩を進める。出来ることなら滑る様に歩ければとクラヴィスは思う。どんなに慎重に一足を踏み出してもその僅かな振動もジュリアスには伝わってしまう。歩き始めた時、最初の一歩が踏み出された途端ジュリアスは声こそ上げなかったが苦しげに顔を歪め、痺れて動かぬと言っていた細い指が沿わせた黒衣に深い皺を刻んだ。
一度歩みを止めたクラヴィスが汗の滲む額に唇を落とした後、耳元に「辛いか?」と囁くとジュリアスは掠れた細い声音で「大事ない」と答えた。しかし、そう答えるジュリアスの瞳は堅く閉ざされ美しい顔には苦痛の影がさしていた。
本当なら欠落した時空壁を目指し駆けだしても時間が足りないくらいである。だが、それは出来ない相談だった。ジュリアスに掛かる負担を最小限に留める方が先決だと思われた。だからクラヴィスは靴音が発つのも憚れるとばかりに静かに歩き続けた。壁の裂け目が閉じて終わぬようにとただ祈りながら。
「クラヴィス…?」
痛みを堪えるために引き結ばれていたジュリアスの唇から小さな声が洩れた。
歩を止めることなく胸に在る顔に視線を落としクラヴィスは何だ?と答える。
「どうして、一人で…来たのだ?」
またお前は勝手な事をしたのではないのか?とジュリアスは少し怒った風に訊ねる。問われたクラヴィスは困った様な笑いを浮かべ、だがいつもの悪戯な言い回しでこう言った。
「わたしが来たのが気に入らぬか?それほど信用がないとは、思っていなかった。」
「そうではない。何故、供も連れずに…。」
開いた空色の瞳は真っ直ぐにクラヴィスの眼を見つめ、心配でならぬと語っいるようだ。
「王立研究院が…わたしが最も適任だと判断したのだ。」
戻ったら聞いてみろ…。
そう言われながらもジュリアスは納得がいかない様子で、しかしそれ以上は何も言わず再び瞳を閉じてしまった。
王立研究院ではその場に居る全員が固唾を呑んで一つのモニターを見つめている。小さな画面には点滅する光の点が映し出されており、それはクラヴィスから発せられるサクリアを受けて、現在彼がどの場所にいるのかを示している。その点滅は思いの外緩慢に進んでいた。
主任研究員のエルンストは何故もっと迅速に目的地に向かわないのかと、先程からクラヴィスの動きがあまりに遅い理由を考えていた。彼には確かに時間に限りがあると伝えてあった。それも僅かな時間しかないと念を押した筈だった。それが分かっていながら、どうして速やかに進まないのかが主任には理解が出来なかった。
いくら闇の守護聖が他人の言動など気にも留めない人だからといっても、まさかこの状況でも同様に振る舞うとは考えられない。また、もしクラヴィスが間に合わなかった場合に今一度サクリアを放出するかもしれないと言った懸念も完全に捨てきれない。彼に伝えた重要な注意事項の中にもそれは含まれていたし、二度の大質量の放出がどれ程危険かなど今更伝えなくともクラヴィス本人が一番わかっているとは思うのだが、最悪の事態が起きた時に彼がそれを行わないという保証もないのだ。
惑星を消すだけの容量を集め放つ事が守護聖に与える負担は相当なものである。連続して行えば尚のことだ。だからクラヴィスはきっと出口の収束までに戻ると予想していた。にもかかわらず画面の中で瞬く点は一定の速度から急ぐでもなく移動するのみである。彼の歩調には必ずそれなりの理由が存在しているに違いない。だが、それが何故なのかが思いつかなかったのだ。
彼がクラヴィスの於かれた状況について、仮定を立て始めた時後方で他のモニターを食い入るように見つめていた研究員の一人から声が上がった。
「主任!時空壁が閉じ始めています!」
「なんですって?!まだ、予測時刻より5分以上も早いではないですか!」
「でも…。」
弾かれた様に立ち上がり駆け寄った彼の視線の先には、無人探査カメラが捉えたクリアーな映像が徐々に閉じていく時空壁の裂け目を映し出していた。振り返る彼から叫びにも似た声が飛ぶ。
「クラヴィス様の現在位置は?!」
「間もなく目標地点に到達すると思われます。」
あと少し…。
画面の点滅は相変わらずユルユルとした動きで進んでいる。
『間に合ってくれ。』
『閉じないでくれ。』
誰もが胸の中で祈った。
深い霧の中を歩いている錯覚を呼ぶほど、周囲は同じ色に包まれていた。色のない色は、自分の位置さえも不確かなものに思わせる。それでもクラヴィスは数歩の狂いもなく真っ直ぐに出口に向かい歩んでいる。ジュリアスを求め入り口から歩いている間、彼は必ず元の場所に戻れるよう自身のサクリアをほんの僅かずつ放っていたのだ。空間に漂う残り香ほどのサクリアの軌跡を辿って行けば、迷うことなく目指す先に達せるのであった。
『もう…そろそろの筈だ。』
胸の内にそう呟きつつ、更に目を凝らし先を見つめるとそれまで見えなかった周囲と異なる何かを瞳が捉えた。
『間に合った…か。』
固く結ばれたクラヴィスの口元が微かに緩んだ。
壁に開いた穴は確かにそこに在った。思わず駆け寄りたい衝動を抑え、変わらぬ足取りで出口に向かい進んで行く。腕に抱くジュリアスを視線だけを動かしチラと見る。やはり、その小さな顔は苦痛に耐えている様に思われた。あそこを通り抜ければ、後は見慣れたゲートを目指すだけだ。クラヴィスはほっと小さな安堵の息を吐いた。
一歩踏み出すごとに壁の穴がハッキリと見えてくる。あと数メートル。出口は目の前にある。そう思った矢先、紫の瞳が欠損した部分の異変に気付いた。人が二人は通れた筈の穴が今は明らかに小さくなっているのだ。すでに時空壁の自己修復が始まっていた。
「ジュリアス…。」
小さく名を呼ぶと閉じていた瞼が薄く開いた。
「ん…?」
吐息ほども微かな答えが返る。
「少しだけ、我慢してくれ。」
クラヴィスの言った言葉が何を伝えるのかをジュリアスが理解したのか定かではなかったが、彼はコクリと頷いてみせた。
腕に力を入れ、ジュリアスを更に抱き寄せるとクラヴィスは意を決して歩調を早めた。一度閉じ始めた穴は急速に小さくなっていく。
「待ってくれ!」
堪らず声を上げたクラヴィスの目前で無情にも欠損部は消えていった。今まであった出口の穴は完全に閉じられ、そこには灰色の壁があるだけであった。
「時空壁が閉じていきます。」
「主任!間に合いません!」
「修復の速度が増しています!」
「欠損部が…。」
計器から大きな警告音が鳴り響く。それは、完全に時空壁が閉塞したのだと告げていた。
続