*Holy Garden*

=12=

薄く開いた眸の先には相変わらず曇天の空に似た色しかなかった。
視線は遙か彼方を彷徨っているようでもあり、間近の虚空を見つめているようにも思える。全身が強張って力が入らぬのか、それとも実は手足などとうに無くなってしまい、だから幾ら動かそうとしても指先すら動かないのかと霞の掛かったようにボンヤリとした頭でジュリアスは考えた。それなら仮に此処から助け出されたとしても執務など執れる筈もないわけで、ならば自身がこの宇宙に在る意味もないのだと思った途端、どこまでも澄んだ蒼い瞳から一筋の涙が零れた。
頬を伝う一滴の熱に垂れ込めていた霧が一瞬にして晴れるかに、彼の混沌とした意識が現実に向けられた。
『私とも…在ろう者が。』
声に出さず呟く。
凡そ自分らしからぬ考えだと喉の奥で微かに笑った。例え手足を失ったとしても何も出来ぬなどと。世界が万に一つでも己に求めるものがあるのなら、最善を尽くさずにはおれない筈だ。自身を支配せんとする「諦め」の二文字に気づき、それを一掃すべく胸に「希望」の文字を刻んだ。
己のせねばならぬ事を成さずして諦めるなど以ての外だと、殊更強く自身に言い聞かせる。諦めてしまえば例えそれが糸ほども細く頼りない道であろうとも、確かに在る筈のかかりを閉ざすことになるからだ。今までもそうしてきた。それは気の遠くなるくらい昔からずっと。



しかし、それが計らずとも間違いであるのもジュリアスは知っている。
あの美しい紫色の瞳が自分を映さないと知った日。胸に沸き上がった熱く苦しい想いは確かに諦めだったのだ。幼い頃、クラヴィスを護る者として確立した自身の居場所を失ったと確信した時、ジュリアスは何をする事も出来なかった。なすべき何かを知らなかった。よもや、あの優しい心を繋ぎ止める手だてなど持ち合わせていないと知りすぎるほど理解していた。
執務に対して諦めなど持ったことはなかった。
ジュリアスはただ一つ求めた彼個人の望みを諦めたのだ。だから、もう諦めるなどすつつもりはない。ましてこの状況でその二文字を受け入れるのは、絶望を意味することであり、言い換えれば宇宙と女王への忠誠を裏切るにも等しいと言える。どれほど待とうとも必ず助けはやって来ると信じる事が、今彼に残された一縷の望みであるなら、その微かに灯る希望の明かりを自ら落としてはならないのだ。それに…。不意にジュリアスは微笑んだ。
『約束をした…。』
クラヴィスは自分が戻るまで執務室で待っている。きっと随分と不機嫌な顔をして遅いなどと文句を言うだろう。もしかしたら待ちくたびれて眠り込んでいるかもしれぬ。それから屋敷に戻りテラスに出て薔薇を見るのだ。月明かりの下、咲き誇る薔薇を眺めグラスを傾け取り留めのない話をして、そして…。
その時、横たわる身体がビクリと震えた。
地鳴りの様な振動が床を揺さぶり、彼に某かが起こったのだと知らせた。それが凶事ではないことを祈りながら、ジュリアスはその方向に視線を投げる。もう間もなくこちらに向かい急ぐ姿が見える筈だと鈍色の虚空を見つめた。



自身の向かう先を間違えたのかと、焦りの中でクラヴィスは一度足を止めた。
この空間がそれほど広いとは思っていなかった。回廊と言うからには全長は果てしもないと理解していたが、まさか幾ら歩を進めようとも思う姿を見つけられぬとは、全く予想だにしない事実であった。時間に限りがあるのも重々承知している。それなのにもう随分と歩いた筈のクラヴィスは、今だジュリアスを見つけられずにいた。
ただ一つの指針であるジュリアスのサクリアは確かに感じられる。波のように寄せてくるそれを頼りに歩いて来たのだ、決して間違ってなどいないとクラヴィスは胸に立ち上がる不安をうち消した。こんな音もなく色のない場所に一人残され、しかも負傷しているジュリアスを一秒でも早く探し出さねばならない。
さぞ心細い思いをしているだろうと金絹に囲まれた細い顎の線を思い描く。あの夜も明けぬ執務室で水晶が映した姿が紛れもない事実であるなら、あれらか更に数時間が経過した今、ジュリアスが如何なる状態にあるのかが気がかりでならなかった。再び歩を進めながらクラヴィスは忌々しげに舌打ちをする。やはり誰の制止も振り切りもっと早く助けに来れば良かったのかもしれないと、今更考えても仕方のない事に腹を立てていた。
俄に起きた苛立ちの欠片は彼の焦りに煽られ、一足を踏み出す毎にその大きさを増しながら自分自身へと向けられる。己の持つ先見の能力が何故この凶事を未然に知り得なかったのか。遅々として進まぬ探索の結果を何故何もせずに待ってしまったのか。自身の力が障害を崩す鍵であると知った時、何故回廊への扉を直ぐにでも開かせなかったのか。
結局、これらの行き着く先は何故自分がジュリアスを護り得なかったのかと言う自戒でしかなかった。あとどれくらい行けばあの姿に会えるのか…。眼前にある無色の広がりの先に目を凝らし、クラヴィスは恐らくこの空間でさえ美しく煌めくであろうジュリアスの蜜色の髪を求める。



光射す庭で差し出された手を取ったあの日から今に至るまで、ジュリアスは気付いてもいないだろうがクラヴィスはずっと彼を護っていた。ジュリアスが先に立ちクラヴィスを擁護したのとは異なる、それはもっと内面的な守護であった。眩い光と強いサクリアによって隠された、ジュリアスの深くに内在する弱さをクラヴィスは護ろうとした。
護る者と護られる者はどちらでもなく、彼ら二人はその纏うサクリアが表裏一体であるのと同様に、互いがその両者を兼ねていたと言って間違えはないだろう。例えジュリアスの思うようにクラヴィスが彼から離反した時点が二人の立場の逆転と見えたとしても、その実目には見えぬ深い部分に於いて、それらは少しも変わってなどいないのではないだろうか。
それ故、強く求め誰よりも惹かれあったのだ。どちらが護る者でも護られる者でもない。彼らは支えあい、共に在る者なのだ。どちらが欠ける事も許されぬ魂の片割れなのであろう。
今にも閉じてしまいそうな瞳を幾度も瞬かせ、ジュリアスは一心に先を見つめる。
呼吸の度に胸に落ちる重い空気に喘ぎながら、クラヴィスは更に先を目指す。



霞む視界の遙か先に一つの影が現れた。
それが徐々に大きくなり人の形になるのを見留た途端、ジュリアスの口元から驚嘆とも悲嘆ともつかぬ溜息が洩れた。そして、掠れた声で一つの名を呟く。
「…クラヴィス。」
誰よりも逢いたいと思い、しかし最も来るべきではない人であった。



何もないと思っていた視線の先に小さなシルエットを捉える。
それが誰なのか疑う余地もないと確信した途端、クラヴィスの口元から安堵と歓喜の声が洩れた。そして、思いの丈を込めて一つの名を呼ぶ。
「ジュリアス!!」
足下に絡む衣装の裾を翻し、その人の元へクラヴィスは真っ直ぐに駆け寄った。





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