*天国の扉*
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髪を留めていた飾りを外すと、縛めを解かれた闇色がハラリと背に広がった。薄い布越しに射し入る光が徐々に強さを増すことで、陽が昇り新たな年が明けてゆくのが手に取るように分かった。
身に纏った儀式用の礼服を脱ぎ、馴染んだ平服に袖を通しながらクラヴィスはもう一度窓から入る光に目を遣り、そして眩しげに切れ長のそれを細めるのだった。
昨日、廊下ですれ違ったジュリアスの事を思い出す。
心を何処かに置いてきた様な、何かに心を奪われた様な、聖地のましてや聖殿では決して見せぬジュリアスの顔。何故あんな顔をしたのかとクラヴィスは思う。何人をも射抜く冴えた青い瞳。輝きを放つ黄金色の髪。透明感のある白い花弁を思わせる肌。そして、桜色に濡れた唇。光を纏い、すべてを導く神にも等しいその姿。『美しい』という言葉はあの者の為に在ると確信する。その人が何を見て、何が故の表情なのかと考える。そして、記憶の端から引き出す思い出というパズルの欠片。クラヴィスが何にも替えられぬと、胸の奥底に抱き続ける暖かく懐かしい宝玉。その中に同じジュリアスが居る。忘れることなど出来ぬ、あの日のこと。
椅子の背にあった薄衣のローブを羽織り、クラヴィスは衣の裾をひき戸口に向かう。この部屋には、いやこの時を止めた神殿には今クラヴィス以外の何者も存在しない。送りの儀が終了した時点ですべての神官は、新生の儀に臨むべくすでに隣接する社に移動している。
重い音を引いて閉じられた扉の前に立ち、長い廊下の奥にある祭壇の方角を眺めたクラヴィスは懐かしげに、また愛おしいものを見るような眼差しを送った後、乾いた靴音を残しこの場を後にした。
見上げた空は恐ろしいほども青く澄んでいた。
砂浜は両側に大きく突き出た岩場に抱きかかえられるように、緩く湾曲しながら弧を描き広がる。粒子の細かい砂は雪を思わせるくらい白い。そして、頭上にある空よりさらに蒼い海。遠く見える波頭は陽を弾き煌めきながら見る間に崩れ、崩れる裾を飲み込みながらまた立ち上がる。
しかし今クラヴィスの足下に寄せる波は穏やかで、白砂に薄い影を残しては引いていく。周囲には何一つ視界を遮るものもなく、寝台に身を置いてはいたが一睡もせずこの場に足を運んだクラヴィスは、よほど日差しが眩しいのか額に手を翳し、風に髪が巻上がるのも構わず渚に佇んでいた。あともう一刻もすれば此処に来るはずの者を待ちながら、彼は『あの日』に思いを馳せる。遠く過ぎ去っても尚、鮮やかに脳裏に甦るあの姿に。
今から時を遡ること十余年前、彼ら二人は今日と全く同じ任に就く為にこの地を訪れた。クラヴィスが閉めたあの神殿を初めて開く儀式への参列。またすでに建物すら残っていない旧神殿への祈りの儀。それは彼らにとって守護聖となって最初の外地への出向であり、他の守護聖を伴わぬただ二人だけの任であった。もちろん今回同様互いが如何なる様で祭壇に臨むのかは、彼らが光と闇の守護聖である故に見ることは叶わない。
『だが、見たかったのだ。』
そう、クラヴィスはあの時幼い光の守護聖が生まれて初めて祭事でサクリアを行使する様が見たいと、闇を司る者であるにも関わらず降臨の儀へ忍び込んだのであった。
最初は単にジュリアスが心配だと思ったからだった。正装を身に付けた自分にしっかりやれと声を掛けた時のジュリアスが平素では考えられぬ程身を固くしていたのに気付き、この任を全うせねばならぬと思うあまり信じられぬくらいの緊張を強いられているのが手に取るようにわかったからだ。決して彼が不備を働くなどとは考えていなかったが、もし何かあった時に傍に居たい、そうせずとも彼を見守りたいと望んだのである。もしかしたらそれこそが単なる言い訳であり本音を言ってしまえば、この日のために設えた儀礼用の正装を纏ったジュリアスを見たくて仕方がなかっただけかもしれない。宛われた居室からどうやって抜けだし神殿に入ったのか、細部に関してはクラヴィスもハッキリとは覚えていない。ただそっと開いた扉の内に居並ぶ参列者に気付かれぬよう、柱に隠れて臨んだ祭壇に立つジュリアスの姿は、息をするのも忘れるほど神々しく美しかった。
肩にかかる髪がサクリアに煽られ緩くたなびく。射し込んだ一筋の陽光の中で僅かに顔を上げ、いつもより少し高い声で淀みなく祈りの言葉を唱えていた。差し上げた手から生まれた光がひときわ大きく輝き、ゆらゆらと炎の如く揺らめいてジュリアスを包み込んだ。真白き希望のサクリアは彼の「この地に余す事なき希望を」の一言に呼応し、掲げた掌より放たれ拡散する。部屋に居る全員の胸に希望と誇りを灯し明かりを入れる小さな窓から外気に溶けて、この星の隅々にまで広がっていった。
上げていた腕を降ろしたジュリアスは、多分自身の大任が滞り無く終わった安堵に息を吐いたのだろう。少し上がり気味であった肩から力が抜けるのが分かった。その時彼の見せた表情にクラヴィスは鼓動の速まりを覚えた。何かに魅せられた、半ば放心したような曖昧な顔。ジュリアスの内面に潜む儚さを顕わにしたそれこそが、彼の心が誰よりも無垢である証だとクラヴィスは感じた。
『それ故に、誓ったのだ。』
彼の僅か後を歩いて行こうと。彼の目指す先へ共に行くのだと。彼の望むままに何処までも。定めに引き裂かれるその日まで。
潮騒に紛れ砂を踏む音がした。
一足毎に近づくそれが何者であるかなど振り向かずとも分かっている。風に乗り「クラヴィス」と呼ぶ声が聞こえた。海に視線を向けたままクラヴィスは答える。
「早かったな。」
そして続ける。
「久しぶりだろう。」と。
横に並ぶジュリアスが「ああ…。」と返す。
視界の端に見た彼は正装のままで、それがどれ程急いでここに来たのかを語っていた。
「もう、随分以前のことなのに、ここは少しも変わらぬのだな。」
ジュリアスは幾分目を細め、遠く広がる海の先を見つめていた。
あの日も今と同じようにクラヴィスがここで待っていた。名を呼び駆け寄ると嬉しそうに笑って、ジュリアスと小さく呼んだ。眼前には青い海があり、その時唐突と本で読んだ幻の都を思い出した。曇りのない清廉なる瞳をもつ者だけが、海の果てに見いだせると記された楽園の一節を。ジュリアスは信じた。クラヴィスとなら必ず行ける。そして告げた。必ずそなたを連れて行くと。
確か一度クラヴィスは驚いた様に目を瞠り、だが直ぐに零れるほども笑んで大きく頷いた。もし今それを告げたら、一笑にふされるかも知れぬ幼い日の思い出である。まさか自身が思うほどもクラヴィスが、そんな取るに足りぬ記憶の一遍を胸に抱くとはジュリアスは思ってもいなかっただろう。変わらぬ同じ想いが各々の中に息づいていると、二人は気付いてもいないのだ。相手を想う心は何よりも強いと信じているが、逆に自身が思われていると言いきれる程彼らは慢心してはいない。
だから子細な言葉に心を揺らされ、何気ない仕草に胸を熱くするのかもしれない。二つの視線は交わることなく真っ直ぐ先に向けられている。クラヴィスの腕が上がる気配に、ジュリアスはほんの微かな笑みを浮かべた。伸べた指先が一度髪に触れ肩に置かれる。ジュリアスは抱き寄せられるのだろうと背にある腕に身を任せようとしたのだが、頬に触れた唇の感触に口づけを予感しそっと瞳を閉じた。
肌に在る唇が一度離れジュリアスの唇を軽く啄み、瞬く間に重なるとそのまま穏やかな口づけとなった。ゆっくりと腕を廻し艶やかな絹を纏う背を抱き寄せ、蜜色の波に手を差入れ絹よりも細い髪に指を絡ませる。腕の中にあるジュリアスの体温を確かに感じながらクラヴィスは思う。あの日その両手で押し開いた扉は新たな幕を開ける神殿のそれではなく、己を導く天よりの使いと巡り合わせる天国の扉だったのだと。
そして祈る。願わくばその者を奪うことなかれ…と。
貴方は言った。あの先には夢の国があるのだと。
光に溢れ、誰もが悲しみなど知らぬ国が。
そして笑みを浮かべ腕を伸べる。
手を繋ぎ、心を重ね、二人想いのままに羽ばたけば届かぬはずなどありはしない。
我らの行く手に必ず開ける。
それは、天国の扉。
了