*天国の扉*
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そこはとても暖かかった。陽光が目に眩しい。
時折吹く風は胸に少し甘く重い。
耳に届く声は笑っていて、それが嬉しくて私も笑った。
鳥の音は高く遠く。
降り注ぐ光の粒、肩に、腕に、濡れ羽の髪に。
細く消え入りそうに名を呼ばれ答え手を伸べれば今一度、愛しげにジュリアスと呼ぶ声がする。
手を繋ぎ共に踏み出す砂上。
沈む足先に戸惑いながらも寄せる波を追い、また逃げる。
零れる笑みを互いに見合わせ、広がる波頭のその先に行こうと。
日が昇る、あの未だ見ぬ国へ。
結ばれた魂が呼応しいつかあの紺碧の高見にすら行けると信じた。
求め合う心のままに羽ばたけば、先にあるは導きの扉。
押し開けばそこは久遠のまほろば。
「では、この会議の後でご出立されるわけですね?」
一つの年が終わる日にも守護聖達は変わらぬ一日を過ごす。
「そう予定しているが、何か?」
いえ、大した事じゃないんですが、オスカーは頭を掻いた。
「明日は一日執務も休みと決まっているのに、その日まで出張とは大変だと思いまして。」
人好きのする笑顔を向け首座を労うオスカーに、ジュリアスはいつになく柔らかな笑みを返す。
「そなたの気遣いに感謝する。しかし祭事は午前の早い時間で終わるのだ。その後聖地に戻るつもりだ。」
それなら良かった。飾りのない言葉は彼の心中を的確に伝える。
「たまの休みです。ゆっくりと過ごして下さい。ジュリアス様には十分に休息をとって戴きたいですから。」
首座の腹心の真っ直ぐな物言いに、ジュリアスも素直に頷く。
「では、これで失礼します。」
背に広がるマントを靡かせオスカーは部屋を後にする。
振り返り戸口で礼を寄越すオスカーに、ジュリアスは今一度大きく頷き笑顔を見せた。机上にある残りの書類を引き寄せ並ぶ文字に視線を走らせながら、何かを思ったのか彼は不意に頬を緩める。
数日前オスカーと同じ事を言った者がいた。
『たまの休みくらい、のんびりしても罰は当たらぬぞ』
ぞんざいな物言いだった。
仕事ばかりして何が面白い?と眉を顰めていた。その後でその人は少し笑ってこうも言った。
『向こうで待っているから、早く来い。ジュリアス…。』
そうだな、誰に言うでもなく呟く。きっと彼は相変わらずつまらなそうな顔で自分を迎えるのだろうとジュリアスは思った。それでいて誰よりも優しく腕に抱くのだ。
早く行こう…。
あの光の扉を抜けてクラヴィスの待つ星へ。
額に掛かる前髪を後に流し、再びジュリアスは紙面に目を降ろした。
次元回廊を抜けた先は仄暗い神殿の一室であった。すぐ先に木製の扉が見える。石造りの壁には蝋燭の明かりが灯り、窓のないこの部屋では今が朝なのか夜であるのか、全く想像もできぬ。迷わず扉を押し開け廊下に出たジュリアスは、不意に開いた扉に驚いて足を止めた神官とあわやぶつかるところであった。
「すまぬ。」
先に謝罪したのはジュリアスだった。相手が何も言わぬ為どうしたのかと顔を見ると、まだ少年の面影を残す若い神官は--もしかすると見習いなのかもしれないが--両手に祭壇に供える花を抱え呆然と自分を見つめていた。まさかこんな場所に突然光の守護聖が現れるなどと思ってもいなかったのだろう。
「私が不注意であった。申し訳ない。」
更に詫びを言うジュリアスに、やっと神官からの言葉が返った。
「と、とんでもございません。私の不注意でございます。お許し下さい。」
神官は声を上擦らせ深々と頭を垂れた。両手に溢れる紅色の花が揺れて、ジュリアスの鼻孔に甘い香りを運ぶ。
「や、闇の守護聖様は、あちらのお部屋に居られます。」
未だ動揺が収まらぬまま、彼は廊下の先に見える扉を示した。ジュリアスも顔を巡らせその先を確かめる。
「あの、部屋で良いのだな?」
神官は大きく頷きご案内いたしますと先へ行こうとしたが、それをジュリアスは丁寧に断った。彼が廊下を小走りに抜けようとしていたと言うことは、急ぎその花を届けねばならぬからであろう。私の事は構わずとも良いそなたは早急に己の職に戻ってくれと、光の守護聖は怜悧な顔に反して穏やかな物言いでそう言った。
「申し訳ございません。ありがとうございます。」
それ以上深く礼を出来ぬほど神官は頭を下げると、失礼いたしますの一言を残し急ぎ足で廊下の奥へと消えていった。
ゆっくりと歩を進めながらジュリアスは両側の壁に視線を走らせる。
がっしりとした石積みの壁には、所々にうっすらとではあるが亀裂が走っている。この建物が神殿として使われるのも今日が最後になるのだと、彼は良く見れば水の滴った後の残る天井に目を向けつつ感慨深げに思うのだった。
その部屋には窓があった。
引かれた薄いカーテンを通して射し入る遅い午後の陽光が、室内を暖かな色に染めている。一つだけ置かれたテーブルに向かい、クラヴィスは相変わらずの表情を消した顔で、一人カードを繰っていた。
もう暫くすれば祭壇に赴き明けの空に鶏の声が上がるまで彼は闇の守護聖として、この神殿に最後の祈りを捧げることになっている。しかし彼はまだ聖地を出る時に身に付けていた略式の礼服を纏ったままであった。クラヴィスは入って来たジュリアスに広げたカードの絵柄から目を上げもせず、早かったな…と声をかけ、手にした数枚の中から一枚を引くとテーブルに置いた。歩み寄ったジュリアスがそれらを覗き込む。
「そろそろ支度をした方が良いのではないか?」
「ああ…。」
そう言うとクラヴィスは初めて顔を上げ、真っ直ぐに自分を見るジュリアスの視線を受けて「久しぶりだな…。」と静かに言った。
ジュリアスが怪訝そうな顔をする。何が久しぶりなのだと思った。
クラヴィスが聖地を発ったのは一昨日の事だ。少しも久しいなどと思わぬとジュリアスは口に出さず呟いた。何が久しぶりなのだと桜色の唇が訊ねようとした時、扉をたたく音と「お支度のお時間でございます」という声が室内の空気を揺らした。クラヴィスは了解の意を返すと立ち上がり、「では…な。」と一言を置いて部屋を出ていった。
「何が久しぶりなのだ・・・?」
誰も居なくなった部屋に残り、ジュリアスは随分と不思議そうな貌で一人言うのだった。
あと数時間の後にこの星も一年の最後の時となり、そして新たな年が始まる。
通年であればその送りと迎えの儀式にわざわざ聖地から守護聖を迎える事などないのだが、この年の終わりに長きに渡り神殿として使われた建物を閉じ、ここから僅かに離れた場所に建つ社を新しい神殿として開き、御霊の降臨を祝う儀式が執り行われるのだ。
すべての任を解かれるこの場に闇のサクリアを注ぎ、また新しく開かれ今後幾年もの長い時を刻む神殿に光のサクリアを施すのが、今回彼ら二人がこの地に赴いた由である。クラヴィスはこの後すぐに祭壇に向かい、明日の朝明けの星が空に瞬くまで闇の守護聖の勤めを果たし、同じ空に新年の暁光が射すのを合図にジュリアスは光の守護聖の任に就くのだ。
送りの儀に光の守護聖が参列する事はなく、また同じ様に迎えの儀に闇の守護聖が出ることもない。光と闇は相まみえることなく個々に己の職務を全うするのみである。
一人部屋に残るジュリアスが暫しボンヤリとクラヴィスの残した一言に頭をひねっていると、再び扉が叩かれ「お部屋のお支度が整いました。」と彼を迎える声が届いた。先導する神官に続き廊下を進むジュリアスの正面から、正装に身を包んだクラヴィスがゆっくりと歩いて来るのが見える。白絹と黒絹を幾重にも重ねた礼服にプラチナの装飾をあしらい、髪はゆるく背の中程で束ねている。額に飾る紫の宝石が壁に灯る蝋燭の明かりを一度吸い込み、そしてきらりと輝いた。
押さえた照明の下を行く姿がジュリアスの瞳を奪った。造作の美しさが際だって、まるで作り物のようだとジュリアスは思う。生きていない人形のようで、触れても温もりの欠片も宿していないようだと。
しかし彼の指が触れるだけで己の躯の奥底に歓喜の炎を灯すこともジュリアスは知っている。それは何よりも熱く何処までも自分を快楽の高見に連れていき、誰にも与える事のできない幸福をもたらすのだということも。そんな事を考えただけで耳がほんのりと熱くなる気がして、ジュリアスはそれらを思考の隅に追いやった。
クラヴィスは何故かジュリアスの些細な思いも言い当てる。どうして私の考えがわかるのだ?と聞いた時、彼は面白くて仕方がないといった顔で『お前はすぐに顔に出るのだ…。』と笑われた事がある。それがもし本当なら自分は今恐ろしく間の抜けた顔をしたに違いないと思い、またクラヴィスにからかわれては敵わぬとジュリアスは自身の考えを慌てて胸の奥にしまい込んだのであった。
互いの距離が縮まりすれ違うほんの僅かな間、二人の視線は宙で交わる。いつもの気怠げな声が「待っている。」と囁いた。
「儀式を終えたらな。」
ジュリアスは頷いた。
「あの場所で…。」
「あの場所とは?」
確かにジュリアスの問いは伝わった筈だった。しかしクラヴィスは答えずクスリと笑った。
「忘れたのなら、思い出しておけ。」
サラサラと衣を引く音を残し、クラヴィスは祭壇に向かい仄暗い廊下の先へと進んでいった。
『また、謎かけのような事を。』
少し怒った風に、しかしクラヴィスの残した謎を楽しんでいるかにジュリアスは声に出さず呟いて先を行く神官の後を追った。背に垂らす波打つ髪がどこからか吹き込んだ風で微かに揺れる。鼻先を掠め通り過ぎる風が懐かしい香りを運んだことに、その時ジュリアスはまだ気付いてはいなかった。
続