*夜の都*

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部屋の奥にある暖炉は使われていないらしい。以前は室内にパチパチと薪のはぜる音を発て、暖かな炎の明かりを見たであろう名残はある。ただ現在は全館に施された空調により、廊下に出ても寒いなどとは思わぬよう館内は一定の過ごしやすい温度に保たれていた。ジュリアスは何をするでもなく品の良い布張りの椅子に掛け、時折思い出した風に入り口の扉とテラスに続く窓に視線を送る。膝には本が置かれているが、一度も表紙が開かれてはいない。
広間での宴が捌けた後、各守護聖たちは誘い合わせ、今宵は夜明けまで静まることのない祝いに賑わう街へと出かけていった。当然彼もオスカーやオリヴィエに声を掛けられたが辞退した。晩餐にも顔を出さなかった闇の守護聖が戻るのを待つのだろうと、彼らは口にこそ出さなかったがそう思った。しかし、それは首座の責任としてなのだと当たり前のように考えた。
「まったく、あの人ってば何考えてるんだろうねぇ〜。」
オリヴィエがヒラヒラと手を振りながら言った一言は、もちろんジュリアスに向けた彼らしい慰めだと思われ、「町中で見かけましたら声を掛けてきます。」と言い置いたオスカーの言葉に頷きジュリアスは平素と変わらぬ物言いで「よろしく頼む」と返した。



街の喧噪が届かぬ室内は、時計の刻む音ばかりが耳に付くくらいの静けさに包まれている。たまに廊下の遙か先から声高に話す人の声が聞こえる。きっと隣り合わせのクラヴィスの部屋に彼が戻れば、扉を開ける音も聞き取れる筈だとジュリアスは僅かに耳をそばだてた。だが未だクラヴィスは戻らない。



夜の闇が孤独や寂寥を運ぶのが嫌いだと、ジュリアスはテーブルに置かれたカップを口に運び一人思う。考えなくとも構わぬことが頭を掠めるのは決まって夜一人になる時であり、出来れば思い出したくない事柄であればある程、一度浮かぶとなかなかその姿を消してはくれない。今は当然ではあるがクラヴィスの事が彼の思考を支配する。
クラヴィスには何処か危ういと思えるところがあり、その存在が希薄に感じてならぬふしがある。彼自身の持つ厭世的な印象からなのか、また彼が流浪の民であったからそう思うのかはジュリアスにも分からないのだが、ある日忽然と姿を消してしまいそうで恐ろしくなる時がある。気まぐれにフラリと出かけてしまったり多くを語らぬ寡黙さゆえではなく、二人並んで夜の散策に出た折りに僅かに目を離した次ぎの瞬間、薄闇に紛れるように傍らから居なくなってしまうのではないかと、隣りを歩くクラヴィスの腕を思わず掴んだ事もあった。
思い出すのも憚れる終末の聖地で起きた一連の出来事の後、二人で交わした約束があっても尚、失うことへの恐怖はジュリアスの記憶の片隅に拭い去れぬ根を張っているのかもしれぬ。しかしそれは彼の自覚にはなく、ジュリアスにしてみれば守護聖としてしか生きられぬ己がクラヴィスにとって彼の忌み嫌う聖地と同義なほど、取るに足りぬ存在であると思いこんでいる事に起因する。嫌がるのを承知で執務を強要し、怠惰な振る舞いに激怒し、一度などは手を上げたことすらあった。それでもお前には従えぬと言い放つ時のクラヴィスの瞳に射す翳りを帯びた色に、ジュリアスの纏う守護聖の姿に対する侮蔑が込められていると感じるのはあながち間違っていない気がする。
今度の事にしても同じなのだと、ジュリアスは何度目かの後悔を胸に抱く。理由を聞き出し、それは分かるが女王の決定を覆すには足りぬと退け、それ以上なにもないなら同行せよとクラヴィスにきつく言い放った。彼が告げた拒絶の理由は女王から直接下った命でここ数日昼夜もなく就いた任により、ゆっくりと休養したいとのことであった。騒がしい席に並ぶだけでも気が重く、それが何処か別の惑星での晩餐なら尚のことだとクラヴィスは心から疎ましげな顔をした。
それに対しジュリアスの答えは執務で疲れているのは誰しも同じ事であり、それを盾に女王の心遣いを無碍に断ることなど出来ぬと言う真っ向からの否定であった。しかもそれは事の済んだ、普段なら気怠くも穏やかに寄り添う寝台の中での言及だったのだ。やれやれとばかりに肩を竦めクラヴィスは言った。
「どうしてもか?」
「どうしてもだ。」
あれ程嫌だと言っていたくせに彼が次ぎに口にしたのは「仕方ない。」の一言だった。
「お前がそれ程言うのなら仕方がない。行くだけなら…行くことにしよう。」
その後疲れたように一つ息を吐き、上掛けを引き寄せるとすぐに目を閉じてしまったのだ。
行くだけなら…。
クラヴィスの発した言葉の意味を考えもせず同行させた見返りに、何処にいるかも分からぬ彼を一人待たねばならぬらなら、いっそ連れて来なければ良かった。聖地の私邸に居るのが分かっている方が、どれほど気が楽かとジュリアスは未だ開かれぬ本の表紙に視線を落とし嘆息するのだった。



ガタガタという異音は紛れもなく鍵の掛かったガラス戸を外から開けようとする音だった。弾かれたかに立ち上がると戸口に駆け寄り、慌てて鍵を外したジュリアスの前に夜を背に立つクラヴィスが現れた。この地は寒冷な気候ではあるのだが、乾燥地帯に属する為に幾ら寒くとも雪は降らない。今も天には降る程の星が瞬いており、しかし戸外は身を切る冷気に満ちている。その中に見慣れた漆黒のマントを纏うクラヴィスは余程急いで来たのか僅かに息を上げて立っていた。
「そなた、今まで何処に…。」
ジュリアスの驚きに途切れがちになる言葉を余所に、クラヴィスはズカズカと室内に入ると辺りに視線を配り壁に掛けられたコートを目にした途端、急いでそれを手に取るとジュリアスに着せ掛けた。
「早く、それを着ろ。」
自身に従わず動かぬジュリアスに焦れて伸ばした腕をしなやかな手に振り払われた。何だ?とばかりに細い眉が上がる。
「突然居なくなったと思えば、急に戻るそばから訳の分からない事を!いったい何を考えているのだ。」
ジュリアスが声を荒げるのは当然のことだ。相変わらず言葉の足りぬ自分に気付きクラヴィスは「ああ、悪かった」と謝罪を述べるが、別に大して悪いとも思っていない声色であった。
「急がぬと消えてしまうかもしれぬのだ。いいから…早くそれを着て、一緒に来い。」
いつになく強引な態度に呆気にとられるジュリアスはされるがままに手を引かれると、テラスを抜け闇の先に広がる林の中へ連れ出されたのだった。



足早に行くクラヴィスが前を向いたまま語り始めた。
「街の通りに露天が出ていた。その中に絵を売る老人がいたのだ…。」
リュミエールに誘われ賑わう街に出たクラヴィスは、街路樹の元に幾つも並ぶ露天の中にあった一枚の風景画に目を奪われた。漆黒の夜空に降りた虹色の帳の描かれたそれはお世辞にも上手いといった代物ではないが、クラヴィスの興味を引くには充分であった。思わず声を掛けると老人は人の良さそうな笑顔を作り、それがこの星で見える「夜の虹」だと教えてくれた。嘗て市街がこれ程明るくなく高い建物もなかった頃はこの通りからでも見えたのだと言い、今でも見たいなら街の北側に広がる林を抜けた先にある、原野に行けば見られるのだと語った。クラヴィスはそのまま教えられた場所を目指し、通りの喧噪を後にしたのだった。
「少し…道に迷ったが、そこに行って驚いた。」
振り返るクラヴィスが本当に驚いた顔で「虹が歌うのだ。」と言うのを見て、ジュリアスはそれまで抱えていた彼への怒りが胸の奥で溶けてゆくのを感じた。
「空が震えて音が聞こえる。一人で見るのは惜しくなった。」
お前にも見せたくなった…。
もう一度顔を向けクラヴィスは笑った。
それに返す言葉が見つからず、ジュリアスはこくりと頷くと微かに笑みを浮かべた。全く理不尽な事ことだ。先程部屋を出るまで彼の中に渦巻いていた不安や心配や恐れや怒りが、こんな一言で嘘のように収まってしまうのがジュリアスには納得がいかない。どれほど問いつめ叱責しても足りないと思っていた筈なのに、それこそ頬の一つも張ってもおかしくない怒りであったものが、他愛もないクラヴィスの言葉に無かったことにされている。
それはジュリアスの内に隠された不思議な感情の波であった。



張り出す木々の枝をすり抜けもう幾度も通い慣れた道でもあるかに、クラヴィスは先を急ぐ。
ふと思いつきジュリアスは声を掛けた。
「クラヴィス、聞きたい事がある。」
振り向かぬまま「何だ?」と問うクラヴィスの髪が林を吹き抜ける冷風に煽られた。
「陛下から直接賜った、そなたの任とは、いったい何だったのだ?」
広間で女王の言った「嫌な仕事」が気になって仕方のなかったジュリアスは、何の飾りもない言葉で訊ねてみる。
「ああ…。」
顔こそ見えぬがクラヴィスは困ったように笑っているのだと、ジュリアスはその声の微妙な揺れから推測する。それは確かに当たっていた。
「まぁ、つまらぬ仕事だ。」
それまで珍しく快活に話していたクラヴィスの言葉が、やはりそこでポツリと途絶えた。ジュリアスはそれ以上先を促さず、彼の口が開かれるのを待つ。もしクラヴィスが語りたくないのなら、それでも構わぬと思ったからだ。気にはなるが無理強いはしたくなかった。
「宇宙の終焉を見届けた…。」
意に反してクラヴィスは続けた。新宇宙に移行する際に残された惑星の中には、物理的に移動不可能なものとすでにその命数が尽きるのをただ待つだけのものがあった。以前クラヴィスが自身の手に掛けた幾つもの惑星は、宇宙の大移動がなければ未だ存続する運命をもつものだった。
最後に残された星々は閉ざされた旧宇宙で、自然淘汰を待つだけの運命である。すでに星達は己の命数が尽きたことを知っており、今は生命の欠片も残らぬ閉鎖空間でひたすら最後の時を待っていた。何もせずとも終わる命に出来るなら最後に安らぎを与えて欲しいと女王は言った。これは命令ではなく自分の願いなので断っても構わないとも。
「それを、受けたのか?」
「そうだ。」
ほんの僅かのサクリアを与えただけで砂糖菓子のように崩れていく惑星を昼夜を問わず、数え切れぬくらい見送ったとクラヴィス静かに語る。肉体的にきつい仕事ではなかったが、その直ぐ後に賑わいだ晩餐に出る気にはなれなかった。
「ただ…それだけの話だ。」
事も無げに語るクラヴィスの言葉にジュリアスは吐息とも嘆息ともつかぬ一雫を落とす。
それが闇のサクリアを纏う者の勤めだとしても、彼が大した事ではないと言ったとしても、クラヴィスが何も感じない訳などないことをジュリアスは知っている。知っていて何もしてやれぬ自分が腹立たしいと聡明な額に皺を刻んだ時、振り向いたクラヴィスの「お前がそんな顔をするな。」と言う穏やかな声が聞こえた。



「もう、そこだ。」
繋いだ手をついと引かれ、薄暗い林から一歩踏み出したジュリアスの目前にもやはり闇が広がったいた。そこは荒涼とした原野で僅か先に丘陵の稜線がシルエットになり、その存在をほんのりと現している。
そして・・・。
天を降り仰いだジュリアスは思わず息を呑む。墨色の空、煌めく星達、それらを包むかに天から降りた光の帯。生き物の様に動き、刻々と色を変える。空の高見から生まれてこのかた聞いたこともない、天空と大地を震わせる不思議な調べが流れる。幾重にも折り重なる虹色の帳が、揺れて縺れ、また広がっては夜に踊る。大きな波にも似た緩やかな動きが見上げる空一面を覆い、この惑星にある命を尊ぶ歓喜の歌を奏でているようだ。頬に触れる凍えた空気に身を竦ませるのも忘れ、ジュリアスは一心に「夜の虹」を見つめる。
「此処に来て良かった…。」
零れた呟きに顔を巡らせてみれば、肩を並べ佇むクラヴィスは微かな笑みを浮かべ空を眺めていた。その時ジュリアスの胸に吹き込んだのは身を焦がすほども熱い、しかしやるせなく切ない想いだった。ただ一人宇宙の終わりを見送ったクラヴィスがこの幻の様な光景を見つめ何を感じたのかを思えば、その心が決して穏やかであろうはずなどない。
「クラヴィス。」
ジュリアスは堪らず名を呼ぶ。クラヴィスが答える間もなく、闇色のマントに包まれた躯に腕を掛けるとジュリアスは背に流す黒髪と共にきつく抱き締めた。
「…どうした?」
答えはなかった。
だが背に廻された腕に籠もる力と髪に差し入れられた手の暖かさが、ジュリアスの語らぬ声を確かに伝えていた。闇に射す光の暖。今宵たった一人の者にだけに送る飾らぬ心。黒衣の腕が躊躇うことなく抱き返し、送られた想いを受け止める。
互いに求めた唇が触れ合い、重なり、一度離れ、再び求めあう。濡れた唇から舌が誘い、差し入れ、絡まり、縺れあう。背にある指が掴み、震え、彷徨い、また掴む。原野を抜ける一陣の寒風が黄金色の髪を巻き上げ漆黒のマントを揺らしても、合わせた胸を凍えさせる事はなかった。
互いの肩に頭を預け、頬を寄せ、ただ抱き合う。
「こうして、そなたと在る事をこの星の神に感謝を。」
耳に届いたジュリアスの声がそう囁く。
「この美しい眺めに出会えた事を…。お前の希にみる強引さに、感謝する。」
「馬鹿者…。」
背にあった掌がすっと上がり、闇の中でも甘く煌めく髪をそっとなでる。
「ジュリアス…。」
何故クラヴィスが呼ぶ声はこんなに胸に滲みるのだろうと、ジュリアスは髪の上を滑る指先を感じながら思
った。
「陛下と、もちろん他の者もだが…、それらと共ある時のお前は、守護聖そのものの顔をしている。」
  クラヴィスが何を言わんとするのかを、ジュリアスはじっと聞き入っている。
「わたしの事など見もしないで…。見たとしても…それは他の守護聖を見るのと同じ目だ。」
一度言葉を切ったクラヴィスがもう一度腕の中の躯を抱きなおす。
「そんな時のお前は、好きではない。」
「まさか、それが本当の理由などと言うのではないだろうな?」
「それも一つだと言ったら?」
「呆れて何も言えぬな。」
「そうか…。」
触れるクラヴィスの頬が微かに緩む。ジュリアスの華奢な指が闇色の髪に忍び込み、大切なものに触れるようにゆっくりと梳いた。クラヴィスの薄い唇から緩い吐息が洩れる。それは合わせた頬を伝いジュリアスの耳に届いた。腕に収まる線の細い躯が小さく震え、蒼天の瞳を縁取る長い睫が覆った。瞳を閉じてジュリアスが囁く。
「クラヴィス…。」
降りてきた唇が重なると、次は二度と離れぬほども長い口づけとなった。それは一つに混じりほどけぬ絆にも似て、求めるほどに求められ。いつしか、夜の都に降りる虹色の光が消えてしまうまで。



聖なる夜を飾る祝福は、すべての命に、すべての民に、すべての愛する者たちに…。





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