*夜の都*
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今宵晩餐が催される広間は「生誕の広間」と呼ばれているのだと、乾杯の為の華奢な作りのグラスを手にしたルヴァが静かに近寄りそう話した。何故そう呼ばれているのかと問うジュリアスに暖かな微笑を浮かべて彼は「さぁ、どうしてでしょうねぇ?」と、いつもの穏やかな物言いで首を傾げた。
部屋の奥に置かれた時計の針が間もなく女王主催の晩餐の開始だと告げていた。彼女の意向により形式的なマナーを省いた立食となった為、横に広いこの部屋には幾つもの大きな丸テーブルが置かれ、立ち働く給仕の数は主賓である守護聖とその供の者より遙かに多いようだ。煌めくシャンデリアの輝きの下では、気のあった者達が取り留めのない会話を楽しんでいる。賑わいの宴。この場を一言で現すには最も適当な言葉だろう。
張り出したテラスに向いて大きなガラス戸が並ぶ。今それらは閉じており填められた磨りガラスに遮られ、その先に広がる景観を見ることは出来なかった。一枚のガラス戸を背にしてジュリアスはボンヤリと室内に繰り広げられる晩餐を待ちわびる人々の様を眺めていた。そしてふと思いついた様に、何度か入り口の扉に視線を送る。
その様子を見る誰もがこう思った筈だ。ジュリアスはその扉から現れる女王と補佐官を待っているのだろうと。それは半分は当たっていたが半分は間違っている。彼は夕方から姿を消したきり何時戻るとも分からぬ次席守護聖が、恐らく何もなかった様に扉を開けるのを待っているのだ。
会場となった豪奢な作りのホテルに着き各自が振り分けられた客室に一度は収まり、その後決められた時刻まで自由に過ごすと決まった時からクラヴィスは宛われた部屋から出ようともしなかった。見かねたリュミエールが半ば強引に誘い出した市内の散策の途中、町中に飾られた美しい装飾に見とれていた僅かな間にクラヴィスは居なくなったのだと、消え入りそうな声で彼はジュリアスに告げた。
それを受けた首座の守護聖は常と変わらぬ怜悧な面で「そうか。」とひとこと言っただけであった。その様子に納得がいかなかったのか、リュミエールは彼には珍しく少しきつい口調でジュリアスに進言した。
「今一度市内に出向き、わたくしがお探しいたします。」と。
しかしジュリアスはその必要はないと取り合わなかった。
「あれも子供ではないのだ。時間になれば戻るであろう。」
首座が必要ないと言うのであれば、それ以上言い縋る術もなく、リュミエールはジュリアスの前を辞した。彼は思う。
『他の守護聖が、例えば年少の者の行方が分からなくても、同じ事を仰るのでしょうか?やはり、ジュリアス様はクラヴィス様の事など…。』
最後は深い溜息となり床に敷かれた絨毯に吸い込まれ消えていった。
広間に置かれた大時計が定時を告げる重い鐘の音が響いた。
両開きの重厚な扉が恭しく開かれ、鮮やかな笑みを湛えた女王が入室してきた。彼女は部屋を進みただ一つ設えられた専用のテーブルについた。
「みんな、お待たせしてごめんなさい。では、始めましょう。」
その一言を受けたジュリアスが厳かに宴の開始を告げる。
女王は平素の守護聖の働きに労いを送り、この晩餐を共に楽しみたいと嬉しそうに言った。手にしたグラスを掲げこの場に居る全員が乾杯と声を上げた。華やいだ空気が室内を満たし各々の顔には幸福そうな色が射していた。今だけは日常の煩わしさなど何処かに忘れた様に振る舞っているかにも見える。女王の向ける笑顔に軽く頷いたジュリアスも、常の厳しさを収め柔和な笑みを作る。シャンデリアから降る光を受けた髪は、いつもより更に煌めいてその蜜色は甘い輝きを放つ。
女王が訊ねる。
「ところで、クラヴィスはどうしたの?」
彼は微塵も躊躇することなく答えを返した。
「此方に参りましてから何やら疲れた様子で気分が優れぬ為、部屋で休んでおります。陛下には申し訳ないと申しておりました。」
女王に無用な気遣いをさせない術を熟知する首座は、例えそれが虚言であっても適切と思える言葉を選ぶ。これは彼が幼い頃から守護聖として身に付けたもので、自身の心根と違う言葉であっても迷う事なくそれを口にする。それにより自分が傷つく事があったとしても、女王と宇宙の前で個人の思惑や感傷など幾らも価値のないのだとジュリアスは頑なに信じているからだ。
女王は少し顔を曇らせて小さく言った。
「そう…。彼にはずっと嫌な仕事をしてもらっていたから、仕方ないかもしれないわね。本当は一緒に楽しみたかったけど、ゆっくり休むように伝えてね。」
畏まりました。有り難いお言葉確かに申し伝えます。
ジュリアスは一度深い礼を返す。
『嫌な仕事…?』
頭を垂れたジュリアスは女王の一言を胸の中で反復する。それは彼の中のクラヴィスの不在という心揺らす種子に新たな揺らぎを加えた。だがゆっくりと上げた美しい顔には、そんな心中を伺わせる翳りの欠片も現れてはいなかった。
広間に灯る明かりが突如落とされたのは、晩餐の開始から半刻ほど過ぎた頃だった。薄闇に包まれた室内に女王の静かな声が流れる。同時に閉ざされていた大きなガラス戸が押し開かれた。その先に広がる幻想的な眺めに大きくうねるどよめきが起きた。
女王は言った。
この星に住まう民の信仰する神の生誕を祝う祭事が行われていると。
年に一度の美しい眺めを皆と共に見たかったのだと。
街中に在る筈の明かりはなく、眼下にはただ暗闇が広がっている。僅か先に小高い丘の稜線がシルエットとなりうっすらと浮き上がる。丁度この建物から真っ直ぐに視線を延ばした先、丘の頂上に高くそびえる一本の巨木があり、その張り出した枝のすべてに細かいイルミネィションが施されていた。地上に降った幾千もの流星を纏ったかに見える煌めきは、言い古された言葉ではあるが夢と見まごうばかりであった。その神を象徴するかにそびえる光の塔に向かい、街のそこかしこから小さな光が帯をなして進んで行く。それは松明を手にした人々の列であった。
彼らは目指す巨木の下に集まり、そこで神の生誕を祝う聖歌を歌うのだという。誰もが敬愛する神への祝辞が、もう間もなくこの広間にも流れる事だろう。此処が「生誕の広間」と呼ばれる所以は、その幻想的な祭事の一部始終を一望にできるからに他ならない。
『クラヴィスも、この美しい光景をどこかで見ているのだろうか…?』
眼下に流れる光の河を見つめ言葉にしようとすれば溜息にしかならぬ感動を覚えつつ、ジュリアスは胸の奥に燻る彼の者の不在を思い、今は深い藍にも見える瞳を微かに曇らせた。
『やはり無理に連れて来なければ良かったか…。』
あの夜クラヴィスが拒絶を現す理由を聞き出した後、女王と首座の命を盾に彼を従わせたのは自分だとジュリアスは深い悔恨の念を抱く。
こと執務に関してジュリアスが己の決断を悔いるなど、強大な女王のサクリアに護られた聖地が嵐に見舞われるより珍しいことである。しかし今姿を現さぬ彼の片翼に関わる事柄になると、彼は全くと言って良いほど自信がなかった。いつも後悔したり疑ったり果ては涙することすらあった。今も己の意に従うと言った時のクラヴィスの不機嫌な横顔が脳裏を掠める。
『あれが嫌がっていたのを知っていたのに…。』
胸の中にある冷たい塊がそう思うたびにざわめきながら大きくなるのを感じ、ジュリアスは僅かに肩を落としながら視線の先に揺れる聖なる煌めきを見つめるのだった。
「もうすぐ聖歌が始まりますねぇ。」
後方からたおやかな声色が聞こえる。
「ほ〜んと、何だかワクワクしちゃうよね〜。」
答える声にも楽しげな響きがあった。
間もなく始まる荘厳な調べを迎えるべく、ジュリアスは心持ち顔を上げ闇の降りた夜の都を今一度ゆっくりと見渡した。
続