*夜の都*
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机上に置かれた紙片をピンと細い指が弾く。それはカサリと音を発て、僅かに端が捲れただけで相変わらず同じ場所にある。諦めともつかぬ嘆息が一つ。只でさえ薄暗いこの部屋が主の零したそれにより一層色を落としたかに思えた。
まったく…。
クラヴィスは誰に言うともなく呟いた。
彼の心情を一言で言い表すとすれば、『煩わしい』または『全く気が知れぬ』といったところだろう。
昨日、王立研究院へ向かうクラヴィスが謁見を終え戻って来たジュリアスと廊下ですれ違う際に伝え聞いた女王の懸案があまりにも馬鹿馬鹿しい話であったので、まさかそれが勅命となって書面で届けられるとは思ってもいなかった。
だいたい幾ら勅命と言えども、こんなどうでも良い事ならジュリアスの一言で却下できる筈だ。それを恐らく恭しい一礼と共に承ってきたジュリアスの融通のなさに呆れてしまう。だがどれ程女王に崇敬を覚えているとはいえ、彼が二つ返事でこれを受けたとも考え難い。多分クラヴィスの想像するように、少し上気した仄紅い頬で一度くらいは異議を唱えたに違いない。
『だが、押し切られたというところか…。』
小首を傾げ柔らかな笑みを浮かべる未だ少女を思わせる女王の「お願い!」の一言に、困ったように視線を落とし眉を寄せ今一度考えを巡らし、しかし最後は諦めたかに肩を落として畏まりましたと返す、ジュリアスの細い肩の線を思い浮かべ、それまで何時にも増して不機嫌そうな顔を作っていたクラヴィスが、ほんの僅かに口元を緩めた。
『さぞかし、困った顔をしたことだろう…。』
胸の内で密やかに言うとクラヴィスは喉の奥で小さく笑った。
女王の命をしたためた書類が各守護聖に渡った直後から、日頃は厳粛な空気に包まれる守護聖殿が俄に色めき立った。年少の者達のはしゃぎようは予想しうることであったが、首座の腹心を自他共に認める炎の守護聖までもがどこかそわそわとして浮き足だって見える。
先程も守護聖全員が聖地を空ける当日の警備に関する詳細を記した書類を自室に置き忘れてジュリアスの元を訪れるという失態を演じ、彼の敬愛する守護聖の長を大いに失望させたのだった。慌てて書類を取りに戻るオスカーの背に一応の労いを掛け、それでも気付かれぬように小さな溜息を落とすジュリアスは守護聖に渡った女王の命の少し後に回した回覧が早々に自分の元に戻った事を確認し、そのファイルに手を延ばした。
翌週の月の曜日の執務を午前で終了し、その足で全員が女王の提案したとある惑星での晩餐に向かうに際し、細かいタイムスケジュールと訪れる先の気象予想並びに手荷物や服装に関する注意書きをまとめ、最後に確かに閲覧した由の署名をするよう求めた回覧があまりに早く手元にある事にジュリアスは一度眉を顰めた。
恐らく誰もが内容をしっかりと確認していないのは明かで、ただおざなりに署名したと見て間違いはないだろう。週末にある定例会議の席でもう一度ハッキリと各自にその事を伝えねばと思いながら目を落とした署名欄に、やはり闇の守護聖のサインが抜けていた。きっとファイルの表題を見ただけでその最後に署名欄があることも確認せず次ぎに廻したのだと、ジュリアスはさらに落胆の色を顕わにし嘆息するのであった。
扉の前に立ったジュリアスはそう言えば昨日廊下ですれ違った以外クラヴィスとまともに口をきいていなかったとその先で自分を迎える者の姿を思った。先週の末はクラヴィスが所用で逢う事ができず、その前はジュリアスに突如入った主星への出張で約束が流れた。もちろん平日にどちらかの屋敷を訪ねることはしないためゆっくりと顔を見たのはその更に前で、たまたまルヴァが開いた茶会に顔を出した時だった。
そして、床を共にしたのは…。
そこまで考えたところでジュリアスは一旦自分の思考を引き戻した。
いつもならばたかがクラヴィスのサインがないからと言って、わざわざ自分が出向くことなどしないものを、こうして闇の執務室に書類を一枚届けるために席を空けたのはやはりただクラヴィスの顔が見たかったのだと確信し、ジュリアスは呆れたという風に小さく笑った。あのつまらなそうに自分を見る無愛想な幼なじみに会いたいだけで、書類の不備という名目まで作りほんの一時とはいえ執務を中断するなど以前の自分には考えられぬ事だとジュリアスは胸の内に思った。
浮かんだ笑みを収め軽く扉を叩くと良く知った声が聞こえる。押さえた低い声が「入れ」と一言告げている。踏み入った室内の薄暗さにはもちろん馴れているが、明るい陽光の射す廊下との格差にジュリアスは思わず数度目を瞬かせた。
部屋の奥に入り口に向いて置かれたデスクに座り、書類を裁く姿を認めるとジュリアスは幾分からかうように言葉を掛けた。
「珍しいな。そなたがその様にしているのを見るのは久しぶりだ。」
一度顔を上げたクラヴィスがそうか…?と返し、再び視線を机上の書面に落としながら何か用か?と静かに訊ねる。ゆっくりと歩み寄ったジュリアスがファイルを差し出す。その表書きを見たクラヴィスは成るほどと言った顔を作る。
「この最後の欄にそなたの署名が抜けていた。また中も見ずに次ぎに廻したのだろう?」
ジュリアスは特に責めるでもなく穏やかに問いかける。紙の上を流れるように走るペンが止まった。
「いいや…。」
相変わらず表情の読めぬ顔を向けクラヴィスは小さく返す。
「ならば、忘れたか?それとも、まさか自分の名前を書くのも面倒だなどとは言わせぬからな。」
先程と同じくジュリアスの言葉にはからかいの色があった。しかしそれはクラヴィスが言った次ぎの言葉で見る間に消えてしまった。
「わたしは行かぬ。」
そう言うと彼はまた手にしたペンを紙面に走らせた。
扉を後ろ手に閉めながらジュリアスは小さく息を吐く。結局いくら問いただしてもクラヴィスは「自分は行かない」の一点張りでその理由さえも聞き出せなかったからだ。彼が一度こうだと言い出した場合、生半可な態度ではそれを覆す事が出来ないのはジュリアスも身にしみて分かっている。
『小さい頃からあれの頑固さにはほとほと呆れる』
普段は自分の意見すら口に出さぬくせにこうと決めたら最後決して譲ろうとはせず、あまりしつこく言い寄るとその内にへそを曲げてしまう。そうなったら幾らジュリアスでもどうにもならない事は、幼い頃から共に育った彼が一番良く知っている。
だが…。
クラヴィスが何の理由もなく自分の意見を押し通そうとする事がない事もジュリアスには分かっていた。日々の執務をさぼるとか、決められた時間に会議に出席しないと言った、もう慣例にも思える彼の態度にはそれ程の理由が存在しないとしても、今回の様な---その内容はともかくとして---女王の命として公布された行事を断る理由は必ずあるに違いないとジュリアスは考える。それが何なのかを探ろうと様々な言い回しを試してみたが、クラヴィスはただ「行きたくない」としか言わず、挙げ句の果てに「陛下には自分から断りを入れる」とまで言い出す始末だった。自室に戻るため一人廊下を歩きながら、ジュリアスは何度もいましがた交わしたクラヴィスとの会話を思い返してみた。彼の少ない言葉の端にでも幾ばくかの真意が見いだせるかもしれないと思ったからだが、結局自分の執務室の前に辿り着くまでには真意の断片すら拾うことは出来なかった。
『後でもう一度聞いてみるか…。』
誰に言うともなく言葉を零す。
守護聖の長としてクラヴィスを説き伏せようとしているのか、それともただ彼を一人残して行く事が何やら寂しく思えるからか、ジュリアス自身も己の気持ちに判断が付きかねている。
それ故、この時光の守護聖が浮かべた表情はどこか曖昧で頼りなげに見えたのかもしれない。
続