*BLUB*

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彼らを隔てる距離は僅か2メートル弱。足を数歩運べば互いに触れられる間合いである。
ところが二人の間にある空気は凍り付いたかに冷え冷えとしていた。
クラヴィスが発した言葉の含みがジュリアスには伝わっておらず、またジュリアスの怖れと戸惑いはクラヴィスに届いていない。それ故、顔を見合わせたまま動くもままならなくなっているのだ。


「別に…お前に何かをしてもらおうと望んでいない。」
自分の向けた一言がジュリアスの胸を貫き、抉り、深くに抱く柔らかな心を斬りつけてしまったとクラヴィスは知らない。
拒絶などではない。言ってしまえば単なる虚勢だった。自分との関係を一旦終わらせようとした彼が、このサクリアと呼ばれる禍々しい力の為に今度はそれを忘れたかの素振りで接してきた。変調を感じ取ったジュリアスが放っておけないのだと理解している。彼は弱い者、窮地に陥った者を見過ごす事が出来ないのだ。だから伝言を残し、クラヴィスが現れるまで待ち、挙げ句にこんな場所まで足を運んだのだ。
差し出されるだろう救済の腕はきっと暖かいに違いない。
だが、それはクラヴィスの望む腕ではなかった。欲しかったのは救いの腕ではない。差し出してくれと願ったのは弱者に伸べられる物ではないのだ。己にだけ許されるジュリアスの心の腕を求めたのである。
だからこの件に関しては何も望んでいないと、彼はそう言いたかっただけなのだ。
裏を返せば「それ以外の何もかもが欲しい」と言うクラヴィスの懇願であったのだが、まさか其れがジュリアスの動きを全て封じてしまうくらい竦ませてしまうなど考えてもいなかったろう。
早鐘の様に打つ鼓動が果たして自分のものなのかと疑いたくなるほど、ジュリアスの胸は激しい高鳴りを刻んでいた。握った掌には冷たい汗が滲み、意識して力を入れなければ指先が止められぬくらい震えてしまいそうだった。
どういう意味だと問い返そうとしたが、それが音になり唇を割る事は叶わない。張り付いてしまうくらい口内も喉の奥も乾いて熱く、何かが凝っているかに細い気道を塞いで呼吸さえも上手く出来なかった。
靴底が床に縫い止められたかと思えた。足どころか頭上から何か強大な力に押さえつけられ、頭を微かに動かすも不可能ではないかと疑った。
ジュリアスは全身の自由を奪われたかに棒立ちのままひたすら向き合うクラヴィスを見つめていた。
窓から入る青白い明かりが暗がりでも尚、はっとするほども蒼い瞳を浮き立たせる。二つの紺碧はこれ以上瞠れぬほど大きく開かれていた。瞬きも忘れた其処に在るのは畏怖なのか絶望なのかは計り知れない。
ただ何処までも抜ける空の高見がクラヴィスを捉えて離さなかった。
クラヴィスが自分を疎ましく思っていると信じていた頃と何も変わっていないと沸き上がる寂寥に胸を震わせながらジュリアスは声にならぬ苦鳴を洩らす。嫌われているとしか考えられなかったあの頃と。
けれどそれは何年も以前の事ではない。たかが数ヶ月前の話である。何が確かに与え合った心を隔ててしまったのか考えれば、答えは瞬時に返ってくる。複雑に絡み合った迷いから出た己の一言が、やっと繋いだ細い糸を断ち切ったのだ。もう一度結ぶなどきっと出来はしない。


為す術もなく立ち竦むジュリアスの視線の先で不意に長身の影がゆらりと動いた。椅子の脇に立っていたクラヴィスが一歩を踏み出したのである。隔たる距離は僅かに数歩でしかない。クラヴィスの行動が読めずジュリアスは彼が前に進んだ分だけ後方に引こうとした。しかし、彼の意思に反して躯は微動だにしな
い。相変わらず大きく開いた双眸で徐々に近くなるその姿を凝視するばかりである。
薄暗がりの中彼の顎の線が、薄唇が、細い眉がはっきりと見取れる辺りまでクラヴィスが距離を詰めた。
彼が次に放つのは怒りだろうか、それとももっと別の仕打ちだろうかと混乱しはじめたジュリアスの思考が鈍く動く。濃い墨色を纏った腕が上がる気配に彼は堪らずそれまで大きく開いていた双眸をぎゅっと閉じた。まさかクラヴィスがジュリアスに手を上げる訳もありはしなかったのに、この時は空気が揺らぐのも恐ろしいと思ったのかもしれない。
強く身体が動くのはその腕に抱き寄せられたのだとすぐには理解できなかった。滑る絹の感触が頬に触れ、あの仄かに甘さを含む香が強く鼻腔を刺激するに至りやっと自分が彼の胸に抱き込まれているのだと知った。
「……嫌だ。」
耳に押さえた囁きが流れ込む。
「お前に、救ってなど欲しくない。」
それは懇願ではなかった。
「白紙になど…戻したくない。」
低くたゆたうそれは哀願に他ならない。絞り出すかの声が数度「嫌だ」と繰り返した。
離してなるものかとジュリアスの背に置かれた両手の指先が純白の正絹を固く握りしめる。もし離したら何もかもが消えてなくなるとでも思っているのか、光沢のある白色の波に立てられたクラヴィスの指先はその衣色より更に白くなるほども力が込められていた。
短い願いが唇から零れ出た時、クラヴィスは心の底で自身を罵倒した。ジュリアスの迷いに気付きながらも、理由(わけ)の一つも聞いてはやらず気がかりで狂いそうになる己を押し殺し傍観の立場に身を置いていたくせに、この期に及んで終わりにするのは嫌だと駄々をこねる。そんな自分が救いようのない馬鹿者だと自らに無言の罵声を浴びせた。それでも言いたいのはそれだけだった。投げた言葉以外は全部忘れてしまった。今、知っているのは其れしかなかった。
告げてしまった途端、何もかもがどうでも良く思えてきた。ジュリアスが次に何を返してくるかなど、考えられない。小さな頃、とても大切な一言を伝えなければと呪文の様に頭の中で繰り返した台詞を相手に言ってしまえば、如何なる答えが戻ろうと安堵と満足が全身に充ちて意味もなく顔を綻ばせてしまったあの時の充足感に似た脱力が四肢に溢れてクラヴィスは眼前に煌めく黄金の波に鼻先を埋めた。
「クラヴィス…」
触れるほども近くにある唇がその名を呼んだ。背に廻される腕が気付かぬくらい小さく動く。
ジュリアスはもうこれまで幾度も喉元まで昇った、しかし決して発するつもりの無かった問いを口にした。
「そなたは…何が欲しい?」
声音は細く、語尾は室内の闇に溶けてしまいそうに震えていた。
欲しいものは何かと問われてもクラヴィスには一つしかその答えの持ち合わせはない。又、唐突と訊ねるジュリアスの真意が図れない。どう答えて良いのか…。迷いは彼の唇を閉ざしてしまう。
「私は、何もかもが欲しいのだ。」
端から何も返らぬと知っていたかにジュリアスは黙したままのクラヴィスに語る。いや、誰に向けた言ではないのかもしれない。自分自身に、自らの心を確かめる為にジュリアスは続けているようであった。
「そなたがくれるより…、ずっと多くを望んでいる。止められないのだ…。」
彼にしては凡そらしからぬ言い様だ。的確に言葉を選ぶ普段のジュリアスからは予想も付かぬ、たどたどしい稚拙な語り口である。
「離れれば…求めずにいられると思った。傍に居れば、際限なく欲しくなる…。」
物理的な障壁を築き雪崩を打つ心を止めようとした幼稚な彼のやり方があまりに哀れだった。手放しで享受するを恐らく自身の堕落だとか、失態だと悩んだのだろう。
「お前は…馬鹿だな。」
口を突いて出たのは密やかな責句である。常なら上がる筈の反句は返らない。今度はジュリアスが口を噤んだ。
「欲しいなら…、好きなだけ受ければ良いのだ。わたしは他の誰にもくれてやるつもりなど無い。お前だけだ…。」
だからお前は欲しいだけ受け取れば良いと、もう一度同じ意をクラヴィスは言った。
「それは…おかしい。」
やっと上がった反句は少しも強さを含んでいない。異議を申し立てるにはずっと儚い響きであった。
「私は何も返せない。そなたは何も要らぬと言うし…。」
本当に子供の言い草だ。子供なら其処で途方に暮れるだけだが、なまじ知性やら常識やら自尊がある分質が悪い。要らぬ理性に縛られ愚策を良策だと思いこむ。
「本当に馬鹿だな…。」
今度の責句の語尾は僅かに笑っている。
「何もかもが欲しいなら、何もかもを寄越せ。」
命じるような囁きにジュリアスは驚いたのか俯き加減の小さな頭がぴくりと動いた。
「嫌か?」
「嫌ではない。」
「ならば、お前が望む分だけわたしにくれ。」
こくりと頭が振れる。蜜色の髪がさらりと流れた。
「…ジュリアス。」
「…ん?」
「わたしが……好きか?」
息を吸い込む音が聞こえた。消えてしまいそうに空気に紛れる。
「…………好きだ。」
「わたしもお前が好きだ。」
伏せていたクラヴィスの顔が上がる。背に置かれた腕が離れ、離れたと思った両手がジュリアスの頬を包む。月明かりの中、二つの輝石がジュリアスを見つめている。
陽光の下では透ける菫色にけぶる瞳が今は闇を湛えていた。深く果てのない墨に沈むそれはジュリアスの瑠璃を強く捉え、それでいてあまりに沢山ありすぎる伝えたい気持ちを持て余し困ったように揺れた。


簡単な事だと思っていた。一方的に思慕を押しつけたのではなく、互いの想いを知ったならそれだけで充足が訪れるのだと思いこんでいた。
手を伸ばせばそこには自分に向けて差し出される腕があり、触れたいと欲する気持ちはそれぞれの願いだとばかり考えていた。
どれくらい相手を好きなのかを計る単位が存在しないのと同様に与え合う割合などが在るとすら想像しなかった。
幼い頃から自らの欲を顕わにしないと知っていたから、余計に与えたいと願ったのかもしれない。
それがかえって彼に混乱と迷いを運んでいたなど夢にも思わなかった。享受する喜びの隣りに困惑が在ると知らず、気付いてもいなかった。
誰かに咎められる筈もなく、身体こそ宇宙に捧げているにしても心は自由であると信じていた。
けれど彼を責め立て、糾弾したのは誰でもなく彼自身だったとは…。
言わなければならない言葉、形にしなければ伝わらない想いもあるのだとクラヴィスは今更に知らされた。


クラヴィスが言い倦ねている様を見つめながらジュリアスも躊躇っていた。
想いばかりが募って腕を足を身体とそして心を縛り付けていた自分が滑稽だと感じながら、そうするしか出来ない不完全な感情に仄かな怒りが湧いた。解決の糸口を見付けられず突きつけた刃先がクラヴィスに悲嘆の顔を作らせると分かっていたくせに止められない自らの愚かしさを嘲った。
簡単な事だったのだ。複雑にしていたのは自分だった。
欲しいだけを貰ったなら同じだけを返せばいいと、どうして気付かなかったのか。
与えられたものが大きすぎて、大事すぎて、優しすぎて、それに見合うものを果たして自分が持ちうるかと疑ったからである。どれだけ相手を思うかなど、いくら考えてみても答えのでる筈のない愚問だと気付かなかった自身の馬鹿さ加減がおかしかった。
今は、たった一つが欲しい。自らがそれを望んでいるならクラヴィスも同じだろうか?
自身を包むように見る彼の双眸が伝えようとしているのは、果たして己と同様の言葉だろうかとジュリアスは送られる視線に自分のそれを絡めた。


クラヴィスのあまり色を持たぬ唇が微かに動いた。それは何かを語ろうとしたのではない。そう感じた時ジュリアスは一度瞳を瞬かせ静かに目蓋を降ろした。
求めたのはたった一つ。欲しかったのは互いに同じなのだと悟る。そして自身の唇を触れてくる彼のそれにそっと合わせた。
啄んでは離れる口付けが深くなることはなく、それでも触れたそこから感じる体温がやけに心地よく空虚さに侵食されていた躯の内が満たされていくのが分かった。
更けてゆく夜の中でただ触れるだけの二つの唇は、けれど分かたれる事を拒むかに離れようとはしない。
高く昇る月の帯が、いつしか重なる影を一つに結んでいた。


身の内に育つ種子がこの先どんな花をつけるのか、未だその色すら知る由もない。蕾にもならぬ固い茎先に花開くのが深い悲しみにならぬ保証がないのと同じだけ歓喜の色を持つ可能性はあるのだ。
注がれる水が押し殺した冷たい雫だけではないとジュリアスが気付くのは、もっとずっと先の事かもしれない。だが、それを運ぶのは確かにクラヴィスなのだと彼は知っている。


遠すぎる彷徨の後にあるだろう其れは希望の色であれと願うしか今は出来ないとしても。





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