*BLUB*
=8=
突然の訪問にも部屋付きの秘書官は落ち着いた態度で恭しい礼を寄越した。流石に長くクラヴィスに仕えている者だけの事はある。扉から入ってくるなり主の行き先を訪ねられても穏やかな言い様で的確な答えを述べる。
「つい先ほど緊急との召集により王立研究院にお出かけになりました。」
戻りはいつになるか分からぬと言い残していたと、秘書官は付け足した。彼が呼び出されたのは、宇宙の綻びに飲み込まれた惑星があるか、或いはそれまで何ら異変も見受けられなかった星に歪んだ力が影響を及ぼしたか。クラヴィスの力が求められるとしたらそうした凶事絡みに間違いはなかった。
昨晩感じたサクリアの異常が気がかりではあったが、既に向かってしまった彼を引き戻すのは得策ではないし、当然自身の宿す力であるから何か不都合があればクラヴィスもそれなりの対処を行っていると考えた。戻りの時刻を読めぬとクラヴィスが言い置いたのは、とにかく収めるまではその場所を離れられないからであろう。
ジュリアスは迷わず言づてを依頼する。何時になっても構わぬ故、戻ったなら自身の執務室まで足労を願うと伝えるよう秘書官に言い渡した。自分はいつまででも待っていると加えるのも忘れなかった。
畏まりましたと頭を下げる秘書官に労いと感謝を告げ扉に向かいながらジュリアスはふと考えた。
言づては間違いなくクラヴィスに伝わるだろう。彼に仕える者達は有能であり責任を重んじる。
しかし…。
『果たしてクラヴィスは自分の元へとやって来るだろうか?』
自身の言を受けたのが昨日の夕刻、あんな理不尽な台詞を投げられ今日になって用があるから来いと言われ『はい、そうですか』とやって来るなどあり得ぬかと思える。
けれど如何なる理由があろうと他者に詳細を話すのは適切ではない。今のところあの事象はジュリアスの単なる懸念でしかないかもしれないのだ。
もし、どれほど待っても彼が現れなかったら自ら出向けば良いのであり、その時既に退出してしまっていたなら彼の屋敷に行くだけの話だとジュリアスは己に確認を送った。
午前の執務は恙なく終了し、昼の休みを挟んで午後からの予定をこなした。途中ルヴァが訪れた。依頼してあった資料のうち未だ揃わないものは来週になるとの報告を受ける。
そんな報告のみであるなら誰か使者を立てれば済むし、伝言を認めた紙一枚を寄越せば良いだろうとジュリアスが窘めると彼はフワリと笑い頷いた後にこう言った。
「図書館で蔵書の中に居るのはとても楽しいのですが、せっかく良いお天気なのですから少し息抜きも兼ねてお邪魔したのですよ。」
あなたも時には息抜きをしたらどうすか?
それはルヴァの持ちうる性質なのだろうが、神経が尖り荒んだ気分になっている時でさえその声音や言い回しに心穏やかになる。他者に同じ事を言われたら、きっと反論の一つも発てただろうが流石のジュリアスも彼の言葉には頷き同意を返した。
けれど、そう言いつつ息抜きに席を離れるつもりもなかった。
目の前にせねば為らぬ事があれば、不要な思考を動かさずに済む。自分の不器用さに呆れるも他のやり方を持たぬのだから仕方がないのだ。
思えばジュリアスが執務絡みで身動きがとれない程思い悩んでいる時に限ってクラヴィスがやって来た。
理由は様々で、しかし大概は取るに足りぬ用事を持ち出したり時によっては何の脈絡もなく現れては下らぬ世間話をしたり唐突と庭園に行こう等と誘ったりする。
互いの間に溝があった頃には考えもしない頻度で顔を見せる彼の真意が分からず大概にしろと怒鳴りつけた事もあった。自分は仕事もせず邪魔立てする彼を本気で追い払ったのは一度や二度ではなかった。
けれどある時彼の行動の意味を知り、それが自分に対する気遣いなのだと得心した。それにしてもなぜ自分が思考の罠に絡め取られているのが分かるのかが不思議で面と向かって訊ねた事があり、どうしてだ?と率直に向けた問いに苦笑を洩らしながら彼が返した答えは『何となくだ。』の一言だけであった。
自分に限らずクラヴィスには他者の発する心の嘆きが聞こえているのかもしれない。それを放っておけないのだろう。あからさまに手を差し伸べる訳ではないから気が付かぬ者もいるだろうが、例えば宮殿の廊下などですれ違う際にジュリアスには一礼するに留める年少の守護聖がクラヴィスには何か声を掛けるのはそんな彼の送る波長を知らず感じているからに違いない。
クラヴィスの寄越す慈愛を享受する喜びを、それが誰よりも自身に向けられていると知った歓喜をいつしか当然とするかもしれない己が嫌だとジュリアスは小さく苦い吐息を落とした。
堆く積まれた書類の山がおおかた片づいたのは定時を随分と過ぎた頃であった。残るは全体の一割にも満たない量で、別に当日中にやり終える必要もない雑事である。それでも机上に一枚の紙片も残る事なく、全てに終了のサインを施してしまいたいとジュリアスは紙束の一枚を手に取った。
ふと窓の外に目を遣れば、外地より遙かに遅い日の入りも終わり聖地の空は痛い程の緋色から深い藍へと移っていた。
やはりクラヴィスはやって来ない。意識を隣室へと向けても彼の波動を感じないので、未だ研究院から戻っていないのだと微かに浮かんだ不安を払いのける。
文官に託した伝言を聞いてクラヴィスがジュリアスを訪ねる確率は酷く低い筈だ。もしかしたら顔を見るのも忌々しいと嫌悪されているかもしれない。あんな事を言われて気分を害さない人間など滅多にいない。
それは覚悟している。ただ、彼が顔を出さない別の可能性もある事を忘れてはいなかった。
午前からずっと院に詰めているクラヴィスが行っている執務は、誰にでも任せられる種類のものではない。
宿したサクリアの資質、持ちうる力量、そして長きに渡り培ってきた経験を行使して行う類の責である。
同じ根元のサクリアを有するジュリアスだから察せられるその重責を終えたのち、彼が執務室に戻らず退出するもあり得る事なのだ。自分の残した言葉がクラヴィスに届かぬ場合もある。
手にした紙面に並ぶ文字を辿りながら、彼はこれが終わったらやはり隣室を覗いてみようと決めた。
執務終了より2時間半ほど経ってジュリアスは自室の扉を出た。明かりを落とした室内から廊下にでると普段は薄く暗いと感じる仄明かりがやけに眩しく思えた。長く続く廊下のどちらにも既に人の気配はない。
廊下の遙か先は黒い薄布を降ろしたかの闇に閉ざされ、昼間なら見えるであろう白壁のレリーフは視認できない。静かだと思う。この世界に誰もいなくなったなら、こんな静寂が訪れるかと考えてしまうどほの静けさが夜の宮殿には満ちていた。
隣り合うクラヴィスの執務室との間には数メートルの隔たりがある。それぞれの部屋に挟まれた其処は、文官の控え室であったり守護聖の私室であったりするのだ。コツコツと響く己の靴音が周囲に反響し、常よりも高く鳴っている気がした。
扉の前に立ち軽く二度ノックする。答えはない。もう一度同じ事を繰り返した。が、やはり誰の声も聞こえはしなかった。帰ってしまったかと落胆しつつ触れたノブが軽く回った。扉は錠が下ろされているのではなかったのだ。
そっと押し開きクラヴィス…と呼ばわった。部屋には在るが常のように眠っているのではないかと、ジュリアスは一歩を踏み入れながら光を拒む室内を見渡した。小さな明かりの灯る無人のデスクと主の凭れぬ長椅子が目に入る。恐らく私室にいるのだろう。ジュリアスは迷わず続き扉に向かい室内を横切った。
一度、内廊下に出た彼は果たしてどの部屋にクラヴィスが居るのかと並ぶ扉に視線を流す。閉じられたそれらには主の所在を告げる印は見取れなかった。
例え眠っていても必ず寄せてくる彼のサクリアを感じる為、ジュリアスは意識をその波動に向けた。ゆったりと漂う闇のサクリアは奥の一間から確かに流れており、未だクラヴィスが屋敷に戻っていないのだと教えていた。
先ほどと同じにジュリアスはその部屋の扉を軽く叩く。今度は良く知った声が入れと返った。
私室の中でも一番狭いその部屋には小さな丸テーブルと小振りの書棚と大振りの椅子だけが置かれている。
明かりはなく開け放たれた窓から裏の庭園に並ぶ外灯と天の半ばまで昇った月の白い光が射し入っていた。
窓に向いて椅子に掛けるクラヴィスは入室してきたジュリアスに背を見せている。答えが返ったのだから眠っていたのではないのだと分かる。ジュリアスが何か言わねばと口を開き掛けた時、クラヴィスが先を制した。
「伝言は聞いた。」
その先は直ぐには続かずジュリアスはもう一度何某かの返答をしようと軽く息を吸い込んだ。
「お前の処に行こうとは思っていた…。」
しかし、どうにも疲れており一旦ここに腰を下ろしたら出向くのが億劫になってしまったとクラヴィスはすまなそうに言った。
ジュリアスは振り向かず窓を見つめる形で話すクラヴィスの数歩後まで歩み寄る。外から入る青白い明かりがいつもより更に髪の黒さを引き立てていると、背に流れる癖のないそれを見つめぼやりと思った。
唐突と触れたくなった。絹ほども細い髪に指を滑らせ、見かけより引き締まった肩に頭を預けたいと何の脈略もなくそう願った。
「用件は…?」
クラヴィスの声が探っているかに訊ねる。あれ以上の失望がまだあるのかと訝っているに違いなかった。
「そなたのサクリアに何か変わった事はないか?」
率直に問う。今最も知りたいのはこれだからである。
クラヴィスが一瞬息を飲んだ。懸念が事実に変わる。
「いつ…気づいた?」
他の誰にも知られているとは考えなかった。だがジュリアスには読みとられているかも知れぬと気にはなっていた。互いのサクリアに呼応してしまうのだから、それもあるだろうと覚悟もしていた。
「昨晩だ。」
真っ直ぐな答えだった。クラヴィスは隠し立てを諦める。そして突如何かに気づいた風に納得を顔にのぼらせ、続けて深く頷いた。
「あれは…お前の仕業だったか。」
一度触れてきた闇の腕が瞬く間に消えていった理由がこの時明らかになったのである。
「収まっていなかったのか?
あの時から…何度もあったのか?」
気配からジュリアスが身を乗り出したのだろうと知れた。矢継ぎ早に質問が飛んだ。
「何故言わなかった。
私が知っていれば……。」
知っていればどうしたと言うのだろうか…。
そこまでの勢いが嘘のようにジュリアスは不意に言葉を切った。
「別に…お前に何かをしてもらおうと望んでいない。」
言いながら立ち上がり身体を返したクラヴィスの瞳がジュリアスを竦ませた。
あんな事を言っておいて今更何を言い出すのだと糾弾しているに違いない、お前の手など必要ではないと拒絶を放たれたに決まっている。
深い闇に沈むクラヴィスの双眸が語った意味が確かな音となり内耳に響いた気がした。
脇に降ろした両の掌をジュリアスは固く握りしめずにはいられなかった。
続