*BLUB*
=7=
まんじりとも出来ぬうちに夜は明けていった。
いや、たった一度だけ気づかぬうちに意識が遠のき闇の腕に抱き込まれそうになった。が、いつもなら引きはがすかに自身の意識を取り戻そうとする足掻きもなく、伸べられた腕は頬に軽く触れる程度であっと言う間に姿を消した。それが何故なのかは分からなかった。まぁ、要らぬ力を使わなかったのだから良しと考え、特に深く考察するもしなかった。それ以外は日毎に強くなった闇のサクリアの脅威が嘘のようで幾度瞳を固く閉じても少しも眠くなどならない。今は眠ってしまいたかった。覚醒していれば愚かしい事をつらつらと考えてしまいそうになる。そう願う程にやって来ない睡魔に心底焦れ、意味もなく悪態を吐いている間に明けの明星が空に瞬いていたのだった。
一日の始まりを拒むかに引かれた厚い帳の僅かな隙間から朝の薄い光が忍び込み、床に幾筋かの細い帯を落としていた。
ほんの十日か少し前、昇り行く陽に両手を翳しその暖を感じる幸福に胸を熱くしたのが夢か幻の様に思える。寝台に仰向けに横たわったままクラヴィスは夜通し数え切れぬほど思い返したジュリアスの言葉を又順を追って辿ってみる。
---執務以外では会えぬと言ったのは忘れて欲しい---
---女王試験までの間逢いたくないと言うのも忘れてくれ---
その後ジュリアスは何と言ったのだろうか?
『わたしに否があるなどと思うなと言っていた…。』
一体何が否なのであるかが分からない。
『これは自分の我が儘なのだとも言った…。』
我が儘とは何を指しての意なのだろうかとクラヴィスは自身に向けて問う。
だいたいジュリアスが我が儘を言うのなど、聖地に雪が降るより珍しいことではないか。
それから一度だけやけに悲しげな顔をしてこういった。
---今までの我らの関係を白紙に戻したい---
『…白紙に?…戻す?』
それは何も無かったことにすると言う意味なのだろうかと敢えて異なる言い回しで理解しようとした途端、背がぞわりと泡だった。冷気とも悪寒とも違う感触が身体の中心を駆け抜けた。
「終わり…だと?」
思わず想いを声に乗せてしまう。音になるまでは幾らでも否定できた事実が突如取り巻く空気を揺らし、目に見えずとも何某かの形を得てしまえばそれこそが真実だと何者かに言い渡された気がした。
まして其を突きつけたのはジュリアスである。彼が思い悩む様を知っていながら手をこまねいた結果がこれなのかと膨れ上がる悔恨に胸の奥が震えた。
何故、あの時聞いてやらなかったのか。どうして理由を聞き出さなかったのか。
下手な助言はかえってジュリアスを惑わす結果となる?
体の良い言い訳に逃げを打ったのは己の怠慢だと自身を責める。単に何かを言われるのが怖かったからに他ならない。聞きたくなかっただけなのだ。
ジュリアスにその結論を引き出させたのは他でもない自分なのだと今更にして気づかされた。
しかし、考えてみればクラヴィスはまだ何も返答を発してはいなかった。是とも否ともジュリアスに返していないのだ。ただ惚けたように去っていく背を見ていたに過ぎない。
今一度、彼の元に出向かねばならない。話を聞くとか、理由を問うのではない。許されるならその足下に跪き、縋り、懇願しても構わなかった。
そうするしか無いと強く思った時、隣室から重い鐘の音が響いた。執務開始まではあと一時間余り。
クラヴィスはのろのろと起きあがり緩慢に寝台を離れていった。
宮殿に上がった足で光の執務室へ行こうと決めた。車寄せから最も近い入口を目指す。途中すれ違う幾人かの文官があからさまに驚いた顔をしつつ丁寧な礼を寄越した。当然だろうと思う。こんな時刻に闇の守護聖がしかも足早に廊下を行く様は誰であっても驚嘆するに決まっている。けれどそんな他者の反応などクラヴィスには関係なかった。
大きく回り込む回廊の複雑な分岐の最短を選び、彼は滅多にない程の俊敏な動作で歩を進めていった。
次の角を曲がればその先には己の部屋と並ぶジュリアスの執務室が見える筈だ。足にまとわる長衣の裾を鬱陶しげに裁き大きく踏み出した一歩が其処で止まる。視線の少し先に神鳥を象った飾りの掛かる扉がありそこが彼の辿り着く先であったのだが、僅かの差で扉の内に消えていく人影を見留たのである。
深い紺のマントの先が緩やかに靡いていた。真紅の髪が半分開いた扉に吸い込まれていった。先客はジュリアスの腹心である。
朝一番、オスカーがジュリアスの元を訪ねるのを失念していた。他者の同席する場所に踏み込んで語るべきではない。当たり前の話である。
固く閉じられた扉の前をクラヴィスは先ほどとは比べものにならない緩慢な足取りで通り過ぎた。一度、顔を返しその場所を見つめ、しかし立ち止まることなく自室へと入っていった。
思うほども事は上手く運ばぬのだと、デスクに積まれた書類の束を引き寄せ彼は大仰に溜め息を零した。
傍らに立つ執務官がこの日の予定を淡々と読み上げる。それは内耳に響きはしたが風の囁きほどもクラヴィスの意識には届いて来なかった。
広大な宮殿にあっては、例え部屋を隣りに持っていたとしても全く顔を合わさない事もある。その元を訪れたとしても、主が席にいない事も希ではない。やはり定時を待つ他はないのだろうかと、差し出される紙片を受け取りつつ彼は眉根を寄せた。
その同じ頃訪れた腹心に本日の予定を告げながら隣り合わせの室内に在ると思われる人に意識を半ば取られている者がいた。
昨晩、宮殿から降りる間際にクラヴィスに発した自身の『頼み』はどれ程払っても胸中で鈍い痛みとなり、私邸に戻ってからも寝室に下がる気にはなれなかった。仕方なく自室のデスクで持ち帰った紙片の束に目を通したり、それすら片づいてしまうと後は何するでもなく窓辺に引き寄せた椅子に掛け墨一色に染められた窓外を眺めて過ごした。
少し頭を動かすと室内の光の加減か窓のガラスに己の顔が映る。卑しい者の顔だと思った。
相手に思いやりも掛けられぬ身勝手で薄汚れた欲望しか持たぬ者の顔だと思えた。
押し開けた扉を出る刹那、振り向きざまに見たクラヴィスはただ呆然と己を見つめていた。何を言われたのかさっぱり理解できぬ、だから怒りも悲しみも驚きさえも覚えていない初めて出会った時に浮かべたのと同じ頼りなげな表情を張り付けていた。
いつまで待たせれば自身の迷いが拭えるのかが分からず、口を突いて出た女王試験終了までの期限も果たして何の根拠も持たぬと自覚していたジュリアスが下した結論はあまりに極論ではあった。
それでもクラヴィスに向けて放った其が思いつきなどではなく、幾日も熟考した末の答えであったのだ。
傍にいればきっと願いとは裏腹に同じ行為を繰り返すに違いなく、差し出される全てを食らいつくしてしまうは必至であった。
済まぬと贈った一言では言い尽くせない。そんな事では決して収まらぬと分かっていながら、軽薄な謝罪一つで彼を突き放してしまった。
もしクラヴィスに何もかもを語ったとしたら彼は相変わらずの穏やかな笑みを浮かべ、抱き寄せ口付けながら気に病むなと言ったろう。待って欲しいと言えばどれほどでも待とうと答えるだろう。
けれど、そんな彼の言に甘える自身が許せなかったのだ。互いが同じ立場にない故の甘えだからである。
明日の朝。それは昼かもしれなかったが宮殿のどこかでクラヴィスと出会った時、己はどんな顔をするのだろうかと考えた。卑怯で狡い己はきっと平素と変わらぬ守護聖の面を向けるに違いない。
何事もなかったかに、執務の申し送りをするかもしれない。定時に遅れた彼に小言を吐くのだろうか。
出来れば怒りを向けてくれれば良いと願う。優しくされたくなかった。
胸に渦巻く願望や悔恨が苦い塊となって喉元までせり上がり、ジュリアスはたまらず瞳を閉じた。それでも眼裏には変わらずあのクラヴィスの心許ない顔が浮かぶ。
窓の外からは深くなった夜が運ぶ冷気に乗ってこの時も彼の波動が室内に流れ込んできた。自身で決別を決しておきながら無意識にそれに手を伸ばした。僅かな欠片も残すまいと両腕を伸ばし胸に抱き込まんとした時であった。
馴染んだ闇のサクリアが不意に大きく波打ち、禍々しくも思える意思を発しながら質量を増加させるのを感じジュリアスは咄嗟に自身の光を放出した。あまりに突然であった為、事の次第を考える余裕もなかったのだが、彼の放った眩い光を受けて再びクラヴィスの波動がいつもの穏やかさを取り戻す。
脳裏に蘇ったのは数ヶ月前に起こったあの事件であった。怖れが背を駆け上がり、ジュリアスはぶると全身を震わせた。まだ収まっていなかったのだろうか。浮かべた仮定に背筋が凍り付いた。
---奪われるかもしれない---
それが単なる懸念で終わるを祈りながら、彼は遅々として進まぬ時計の針を見つめ夜明けが訪れるのを待ちわびたのだ。
オスカーとの打ち合わせが終わったら直ぐさま彼の部屋を訪ねようと意を固くした。意識を向ければ確かに隣室からはクラヴィスの気配がする。
確かめなければならない。確かめて、その後彼をあの恐ろしい波動から護らなければ…。
眉一つを動かすでもなく、オスカーの言葉に頷きを返しながらジュリアスは小さく息を飲み込んだ。
続