*BLUB*

=6=

何が欲しかったのだろうか?
何度も、何度も、繰り返し自身に向ける問いの答えは決まっていた。
言葉でも、想いでも、勿論からだでもなかった。
欲しかったのは心だろう。間違いなく其れが欲しかった。
自分にだけ許される心が欲しくて仕方がなかった。
形ある物、明確な証、守護聖という冠名でしか自己を確立できないから尚のこと。
白日を避け、ひっそりと隠された柔らかな其れを手にしたいと願ったに違いない。
ところが許されてみれば何もかもが欲しくなった。
緩く息を吐く唇も、不意に触れてくる指先も、からかう様に細められる瞳も、
腕も、肩も、胸も、髪も、熱く自身を裂く彼の滾りも。
貪欲に、無分別に、手に入れたくなった。
与えてくれないと嘆くことさえ希でなくなった。
何も返してはいないくせに、当たり前の顔で待つのだけが上手くなった。
本当は欲しくなどない風を装い、時に迷惑だと言わんばかりに振る舞うのが上手くなってしまった。


クラヴィスは何が欲しいのだろうか?
聞けば答えは曖昧な笑みにすり替えられると、尋ねるのも忘れたふりをする。
何も要らないと一度だけ返された其れを良いことにしている。
奪い取るだけだ。そして奪われる事に恐怖している。
誰かに取られるなら…。
取られてしまうなら…。
取られてしまったら…。
もう何も残らない。


「……以上が宮殿及び周辺警備に関する今後の展開になります。」
オスカーはそこまで述べ言葉を収めた。着座する全員が次を待つ。暫しの沈黙が室内を支配した。
物音を発てるも憚れるその居心地の悪さが破られるまで数分を要した。珍しいことに報告が終われば直ぐさま発せられる筈の首座の一言が遅れたのである。
我に返ったジュリアスが小さく息を吐き、普段と何ら変わらぬ物言いで了解を返した。まさか、オスカーの報告の半ばより彼の思考が別の何かに向けられていたなどと誰も考えなかったろう。
金の曜日の午後に行われる報告会を兼ねた会議はジュリアスの次週に於ける大まかな予定をもって閉会となった。九人の守護聖と王立研究院の職員が数名、それは見慣れた週末の光景であった。
ガタガタと耳障りな椅子を引く音を残し、年少の守護聖は速やかに扉へと向かう。彼らの後に続くのは中堅の3人とオリヴィエに声を掛けられたルヴァである。少し遅れてクラヴィスが席を離れた。
首座は常に全員が退室するのを見届けてから席を立つ。これも平素と変わらぬ流れであった。
「クラヴィス。」
背に降る声に振り向けば、ジュリアスが首座の顔を向けていた。
「今日は定時での終了か?」
「今のところは。」
そう、今のところは特に目を掛ける事象がない。最近は今までにない時刻まで灯りの落ちぬ闇の執務室もこの日は定時に閉まると思われた。
「少し時間を貰えぬだろうか?」
「これからか?」
「いや、そなたの都合で構わぬが。」
それなら執務終了の頃が良いとクラヴィスが答えた。この後研究院からの要請で幾つか惑星の動向を見なければならないのだと彼は続けた。
「何か…、気がかりな事象か?」
ジュリアスがこんな公の席で自身の予定を尋ねたのだから、それは執務絡みに違い在るまいとクラヴィスは別に気にとめもせず問うたにすぎない。
「そうではない。
 ただ、少し話がある。」
きっと又今後の責務の確認か何かだとクラヴィスは考えた。
「分かった…。」
少しばかり遅れるやもしれぬと彼は一応のことわりを入れた。
「ああ、その頃そなたの執務室にうかがう。」
軽く頷いたクラヴィスが背を返し扉の外へ消えていった。見届けたジュリアスは静かに席を離れる。
全く、いつもと何の変わり映えもしない金の曜日の午後であった。


クラヴィスが戻ったのはやはり定刻を小一時間過ぎた頃であった。惑星の動きを具に見てゆくのは意外にも骨の折れる仕事であり、それが複数ともなれば終了を言い渡した途端に倦怠を伴う疲労を覚えずにはいられない。主の帰りを待ちわびていた文官に退出を促し、彼らが礼を寄越しながら出ていく姿を見送った部屋にはいつにない静けさが満ちていた。
デスクに向かう椅子に深く掛け、その背に身体の全てを預ける。ゆっくりと目蓋を降ろしながら深く息を吐き出すと耳に痺れるような静寂が滑り込んできた。
まさか薄い壁に仕切られた家宅でもあるまいし、日頃から重厚な扉を閉ざしてしまえば外部の音など届かないのだが、それでも人の気配の消えた宮殿には特有の空恐ろしいほどの空虚さが漂っているのだ。
細胞の一つ一つに刷り込まれた気怠さが身体の隅々まで広がるのが分かる。ジュリアスを待ちながら、今宵も繰り返されるであろう誘いの手をどうして振り払うかを杞憂する。宿主を飲み込もうとするサクリアとは一体如何なる力なのかと他人事のように考えたりしていた。果たして其れに身を委ねた先には何が待ちうけるのかと些か楽観的に想像してみた。
扉に当たる軽い手の甲の音が響いたのは、部屋に戻ってから更に半刻以上も経ってからであった。
入室を許可するまで入って来ないジュリアスの律儀さがおかしかった。入ってくるなり彼は大幅に遅れた謝罪を述べる。それも又彼らしくクラヴィスは気づかれぬくらいの笑みを口の端に浮かべた。
「予想より資料の収集に手間取ってしまった。」
部屋を進みながらそんな風に遅れた理由を告げ、ジュリアスはデスクの前まで歩み寄りもう一度済まなかったと繰り返した。
「それ程待ったわけでもない。
 わたしも少し前に戻ったところだ。」
「そうか。
 それなら良かったが…。」
預けていた背を起こしクラヴィスは机上で両手を組む。次を待つとき彼は決まってそうするのである。
「仕事の話なら手短に頼む。」
言いながら、これは皮肉だと言わんばかりに口元を引き上げた。
ジュリアスは昼間と同じ守護聖の顔をしていた。面倒な案件を持ち込んでくる時や、厄介な視察を言い渡す時や、会議に遅れた事への小言を言いに来るときと同じ生真面目な表情をしていた。
「職務の話ではない。」
彼はあまり抑揚を持たぬ声音でそう言った。受けたクラヴィスが上目遣いに言葉の主を見遣る。
「先日、私はそなたに執務以外では会えぬと言った。」
それを撤回しに来たのか?とクラヴィスは発しようとした。
「女王試験終了までと言ったのを覚えているか?」
クラヴィスは黙って頷きを返す。
「それを…忘れてはくれぬか?」
了解を告げようとしたクラヴィスの言葉をジュリアスが遮る。彼の話には続きがあった。
「それから…。今までの我らの関係も白紙に戻したい。」
ジュリアスが何を言ったのかが咄嗟には分からなかった。意味が分からずクラヴィスは惚けた様に自身を見下ろす瑠璃色を覗き込んだ。
「これは私の勝手な頼みだ。そなたが納得できないのも理解している。だが…今は理由は話せない。」
ジュリアスの薄く朱を引いた様な唇が次々と形を変え言葉を紡ぐのだが、その意が全く掴めなかった。
「そなたに否があるなどと思わないで欲しい。そんなことは全くない。私の我が儘だ。」
其処までを一気に語るとジュリアスはクラヴィスが何かを言うのが恐ろしいとでも言いたげに素早く踵を返し戸口へと向かう。
扉を開き出ていく時一度だけ振り返り済まないと一言を残した。廊下に灯された照明を背にした彼がどんな顔だったのかは分からなかった。ただ最後に告げた謝罪もそれまで同様まるで報告書を読むかの淀みない言い様であった。本当に守護聖然とした口調だと思えた。


クラヴィスが我に返ったのは屋敷に戻る馬車の中だった。規則的な振動と車輪の軋みは昨日と同じ響きを彼に伝えていた。夜はとっぷりと暮れ、墨色に塗り込められた聖地の景観が流れている。
果たして自分がどうして此処に在るのかが分からなかった。いつ執務室を出たのか、何処を歩いて馬車に乗り込んだのか、微塵も記憶にはない。部屋の明かりを落としたのか、扉には鍵を掛けたのかと幾ら考えてみても欠片も思い出せないのだ。だが、慌てて探った衣装の懐には確かに鍵が収まっており、身体に染みついた行動の記憶だけが其れを行ったのだろうと薄ぼんやりとした思考の端で結論づけた。
そして先ほどジュリアスが寄越した頼みを脳内で反復するのだが、彼の言わんとした意味が少しも理解できないのだった。
『あれは…一体何を言いに来たのだ…。』
思わず零れた自身の呟きにクラヴィスは薄笑みを刻んだ。余程つまらない冗談を言われたかの呆れた風な乾いた笑みは暫くの間その秀麗な面に張り付いたままであった。





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