*BLUB*
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ジュリアスは誰よりも知っている。この宇宙に存在する星の数だけその置かれた状況を把握している。
そしてその惑星に在る人々の暮らしを熟知している。確かにそれらを実際に視認して知識に埋め込んだのではなかったが、寄越される書面とモニタに映し出される映像を通して現状を歪めることなく記憶に留めてある。
仮にどこそこの惑星で事が起こったと報告があれば、彼は最も適切とされる処置を行うことが可能であった。
これは宇宙に限った事ではない。彼が身を置く聖地に措ける些細な事象に関してもほぼ情報として掴んでいると言って過言ではない。宮殿の警備、仕える下々の者達の処遇、果ては庭園の整備に至るまで毎日届けられる報告書から読み取っているのだ。
だからといって不必要に己の管轄外に口を差し挟む愚行を行うなどしない。あくまでも彼はその諸々を知っているに留め、仮にどこかしらから持ち込まれる要望などを検討する際に膨大な知識の中から参考として使う為に保持しているのである。だからジュリアスが自身の責務に関して知らぬ事柄はないのだ。
けれど彼にも知り得ないものはある。この宇宙の行く末などは想像すらできぬし、明日起こるかもしれぬ凶事は幾ら彼でも分かりはしない。
そして今現在最も認知の外にあるのが自分自身の心である。それ故に彼は何時になく多くの嘆息を落とすのだ。
だが、それ以外にもジュリアスが知らぬ事は存在する。もしどこからか漏れ聞いたとしたら、秀麗な顔に驚嘆の証である表情を張り付ける事だろう。
ジュリアスが執務を別とすれば何よりも心を揺らす相手がどれほども彼を必要としているかを聞き及んだその時には、きっと驚愕と歓喜と逡巡と後悔を一度に覚えるに違いなかった。
太陽の溢れる暖させも懐に包み込み夜は静やかにやって来る。世を彩る色彩を飲み込み、風の囁きと微かな木々の葉が擦れ合う音だけを残し墨色の大いなる時は生の営みをゆるやかな安息へと導くのである。
もたらされる眠りの内に墜ちるを拒む者などありはしない。例え幾ばくかの抵抗を試みたところで、それは間もなく振り落ちる睡魔の掌にからめ取られてしまうのだ。現から暫し解き放たれ、日々の柵を夢の内に忘れる為人は抗うことなく自らの意識を手放すのだった。
無造作に投げ出された腕がびくりと跳ねる。続き、節の立たぬ指が押さえた白色の布地に深い皺を刻む。それは痙攣するかに細かく震えながら何かに縋るが如くより強く上質の布を掴んだ。
軽く結ばれた唇の端から押さえた呻きが漏れる。途切れながらも数度、苦しげに続く声が途絶えたと思ったその時寝台に横臥していた肢体が揺れ閉じられていた目蓋が暗闇の中で大きく見開かれた。
「………。」
灯りの落ちた室内の一点を黒色の瞳が凝視する。しかし、そこには何も映っていない。空間に放たれた視線の先にはやはり暗がりがあるだけであった。
惚けた様に目線を宙に釘づけたまま彼が身動きを忘れていたのは一分にも満たない間での事で、やがて肩に入った力が抜けるとともに細く吐息が緩んだ唇を割る。安堵と呼ぶには随分頼りなげそれが室内の空気に溶けて消える頃漸くクラヴィスは自身の置かれた状況を全て飲み込んだ風であった。
大体に措いて彼が眠ると言う行為は至極曖昧なものである。人は眠り端には現実と夢の狭間を暫し漂っており、それが不意に深い水底に潜る様に現の支配する次元から夢の奥に落ちていくのである。けれど、クラヴィスに限ってはそれが訪れるのは希な事で、時によっては明けの鶏が一声を上げる頃まで水面の付近をゆらゆらとたゆたっていたりする。
だからといって其を不快に感じる訳ではなく、もう長きに渡って自身にはやって来ない熟睡などと言うものは何かの拍子に降ってくる偶然の様な事象だと考えていた。ただ、ジュリアスと床を共にする時だけはその限りではない。勿論、互いに抱き合って眠りに落ちる前に躯を繋ぎ合う行為があるからかもしれないが、そうでなくても何故か穏やかな睡魔を迎えられるのである。偶然が必然に変わる可能性が確かにあるのだと絡み合う腕の内に抱き込んだ体温を感じながら一人思った事があった。
悲しいかな、世の理とは些か人に対して不条理をもたらすを好むらしい。 宇宙の均衡が崩れ始めると、どうしたわけか今まで望んだとしても欠片も訪れなかった深い眠りが頻繁に彼を誘うようになった。最初は不安定に揺れる世界が安息を望むに従い己の司る力を与える頻度が増した事実から、常よりも遙かに多くのサクリアを放出するが故に覚える疲労からだと結論づけていた。
しかし今から一月と少し前自身に起きた信じられぬ災いを経験するにあたり、これが己の内に息づくサクリアが彼を漆黒の底に招き入れる誘い(いざない)だと知った。
あの時は辛くも戻る鍵を手に出来た。が、次の保証などない。
毎夜来る甘美な腕に絡め取られる前に何としても覚醒するしか術はなかった。寝台に横になり、朝日の一筋が窓の帳を割るまでの間に幾度も渾身の力を込め、不確かになる意識を確保するのは容易い事ではなかった。
闇に拘束されなかったのだと確信し安堵の息を吐く。いっそのこと寝台から起きあがり夜が明けるまでを私室で過ごした方が楽かと考えた。昼間、執務の合間に横になり仮眠を取るのは今に始まった事ではない。周囲が不審に感じるなどないだろう。
ところが女王試験の決定が下されるとその僅かな時間を手にするも難しくなっている。持ち込まれる案件は日を追うごとに数を増す。サクリアの供給量もしかりである。ジュリアスが席を離れる頻度が増えれば、クラヴィスに舞い込む執務が増加した。結局こうして私邸の寝室で休むしかなくなったのであった。
薄闇に目が慣れると、脇にあるテーブルの時計の針も見えてくる。残念ながら日が昇るまではまだ何時間もあるのだと知らされる。
再びクラヴィスは深い溜め息を零す。やれやれと胸の内で諦めを呟く。少なくともあと一度は先ほどと同じ抗いを試みねばならない。難儀なことだと声に乗せず苦言を吐く。そしてここ数日繰り返し思う小さな願いをたぐり寄せる。
執務以外では逢わぬと言ったジュリアスの言葉を受けておきながらも、こんな時彼が傍らに居てくれたらと埒もない望みを抱くのであった。互いの躯に腕を廻していれば、いや…ただ手を繋いでいるだけでも構わない。
ジュリアスの温もりとその体内にある導きの輝きがきっとまとわりつく闇の魔手を一掃してくれる筈だ。
彼が光を宿すからだけでなく、ジュリアスが持ちうる慈しみが己をこの場所に留めてくれる。留めて欲しいのだと願うのである。
ジュリアスが如何なる悩みを抱えているかをクラヴィスは知らない。
クラヴィスがどれ程彼を欲しているかをジュリアスは知らなかった。
もし知っていたなら、互いの手を拒むなどしなかったに違いない。
再び重くなる目蓋を何とか開いていられたのもつかの間の事であった。
深々と降りる夜の帳に包まれ、クラヴィスはまた知らぬ間に眠りの腕に抱き込まれていった。
続