*BLUB*

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車寄せに向かう小径を歩きながらジュリアスはふと空を見上げる。聖地を覆うそれは鈍色に重く、今にも雨粒が落ちてきそうに見えた。今更ながら安定しない天候に女王の力の弱体を実感する。研究院からの報告には降雨の一文字もありはしなかった。気象制御装置も崩壊し始めたこの地では既に意味のない機器でしかないのである。
緩く頬にあたる空気には確かに雨の降る前のじっとりまとわりつく特有の湿り気が感じられ、彼は無意識に歩調を早めるのであった。両側に人の肩ほどの生け垣が連なる小径は緩やかな弧を描き先へと繋がる。それが再び直線に変わった時ジュリアスは僅か先を行く人の背を見た。
同じ先を目指しているらしいその人は間違いなくクラヴィスである。見間違う筈などない。長い黒絹を裁き歩を進める背でたおやかな黒髪が揺れていた。ジュリアスが声を掛けようとその名の形に唇を開きかけたと同時に、突如頭上から轟音が鳴り響いた。一雨など生やさしいものではない、激しい雷雨がやってくると彼は小走りに先を急ぎクラヴィスと声を張る。今少し前まで鈍色だった天が俄に黒雲に変わったと気づいた矢先、ジュリアスは眼前に起きた信じられぬ光景に思わず立ち竦んだ。
漆黒の雲を裂いて稲妻が走った。あまりの鮮烈な光にジュリアスは一瞬目蓋を閉じる。そして開いた双眸が捉えたのは天上から恐ろしい勢いで降り注ぐ真っ黒な帳がクラヴィスを包み込む様であった。何が起きているのかなど瞬時には理解できない。惚けた様にそれを見つめていたのはほんの1〜2分の事だろう。クラヴィスの纏う衣装にも似た薄い衣状の何かが見る間に彼を覆い隠し、その内に取り込もうとしていたのだ。
駆け寄ろうと地を蹴る筈の両足は大地に張り付き微動だにもしない。それどころか叫びを上げんと開いた唇からは震える呼吸音が漏れるばかりで微かな声にすらならず、両腕はだらりと垂れ下がったまま指先を動かすも叶わない。そうする間にもクラヴィスの姿形は黒色の粒子が包み込み、既にぼんやりとした人影にしか見えなくなっていた。
張り付いた様に動かぬ喉に力を込めて上げた叫びはその人の名だったのか、それとも意味のない何かだったのかは分からなかった。しかし自身の発した恐怖の音に促されビクリと躯を震わせた彼の目に飛び込んだのは、見慣れた寝台の天蓋であった。見開かれた瞳は怖れの色で満たされ、全身を濡らす冷えた汗に夜着が不快なほど肌に張り付いている。激しく上下する胸と警鐘の如く打つ鼓動の速さが彼の受けた衝撃を伝えていた。
今、自身が見ていた光景が夢であったのだと理解するのに数分の時を有する。強張った躯から力を抜き、薄く開いた唇から細い吐息が洩れやっとそれが現実では無かったのだと確信した。
どれほどの声を発してしまったのかと思えるくらい喉の奥が乾き痛かった。ゆるゆると上げた両手で顔を覆い、額に張り付いた前髪を掻き上げてジュリアスはああ…と小さく声を零した。


ジュリアスは平素ほとんど夢など見ない。学説などでは夢を見ない人間などいないと言われる故、見ていてもそれを記憶に留めていないと述べるのが正しいのだろう。それほど彼の眠りは深く、自身でそうあろうとせずとも短時間でも翌日に疲労を残さぬようにと幼い頃から身につけた術なのである。
それがここ暫くは例えハッキリとした映像として覚えていないが、浅い眠りのもたらす不安定な揺さぶりに幾ども眼を醒ます事が多くなった。決して穏やかな目覚めではない。必ず何かに追い立てられた末にたまらず眼を開く様な切迫した想いを残すか、手の中にある大切な物を誰かに奪われそうになるかの怖れを伴うそれから逃れんと現に戻る繰り返しであった。
しかし、今覚醒の間際に見た鮮明な恐怖は初めてである。世界が崩れる様を日々その双眸で見つめているのだから、そうした不安が像となり夜の無防備な世界に現れるのは当然かもしれない。けれどそれだけではない、ジュリアスにとってもしかしたら宇宙の終焉よりも明かな怖れを抱かせる原因はやはり彼者の存在以外の何物でもないのだ。
自身を強く律し、内包する弱さや脆さを他者に見せないジュリアスであるが故に精神を解放される夢の内にある時こそ何もかもが溢れ出てしまうのかもしれない。


彼は自らを『与える者』として生きてきた。勿論これからもそうであるべきだと強く思う。それは一人宿す光の力を失い聖地の門を出て行くまで続く道なのである。齢五歳にして守護聖の冠を受けた時から疑問すら抱かぬまま自身の有り様としてきた生き方であった。人であれば持ちうる筈の様々な感情は胸の奥深い扉の内に沈め、まるで生まれた時から知らなかった顔を作るのは、それほどの努力など有さずとも容易く身につけることが出来た。
時として生ずるささやかな欲望や飢えや乾きは人知れず捨ててしまえば済む事だったのだ。
宇宙や女王やこの世に在る全てが望むままに与える為に存在するのが自身であると信じていた。
だから他者から何かを与えられる事に慣れていない。慣れていないどころか、まさか自分が受ける立場に在るなど思ってもみなかった。個人的な喜びは禁忌であり自戒を持って拒否する行為でしかなかいのだ。喜びとはすなわち宇宙の喜びである。守護聖が個にそれを覚えるは過ちと断言するほどに。
クラヴィスを己の視界の端に捉える時に感じる気持ちは守護聖の長であり幼少より続いた友人としての関係からに他ならないと決めていた。決してそれ以外の感情ではあり得ないと自らに言い聞かせ続けた。まさか、クラヴィスがそれを言葉にするなどあり得ない事実の筈で、仮に告げられたとしても己が両手を差し出し是と返すは奇跡よりも可能性の低い幻にも値する儚い願いだった。
ところがその幻が実となった途端、ジュリアスは幸福を覚える数だけ躊躇いが生まれる事を知ったのである。
私事に於いても守護聖を貫く彼はクラヴィスの寄越す様々な歓喜を一体どうすれば良いのかを知らない。一度与えられれば次を欲する自らの欲深さが信じられない。固い城壁を張り巡らせ周囲を拒絶するクラヴィスは、一旦その内に迎え入れた者には持てる全てを与えようとする。それが心を与えた者であるなら尚更である。
与えられたなら同じだけを返したいと望み、しかし何を返したら良いかが分からない。それに守護聖たる自身がそんな極個人的感情に溺れてしまうを怖れるあまり素直に受け取れない時すらある。
心の全てを差し出したいと願う。クラヴィスが欲しいと言うだけの全てを。
『一体、何を……。』
思考をあざ笑うかに巡る一つの言葉に先へと踏み出せぬのが実のところだった。


既に眠気など失せてしまっていた。ジュリアスは緩慢な動きで寝台の上に起きあがる。小さな明かりの乗るサイドテーブルに置かれた時計に眼を遣れば、後数時間で夜明けだと知れた。だが、今この時世界は夜のただ中に在る。クラヴィスの支配する漆黒に塗り込められた静寂の腕に抱かれたいるのだ。
身を起こしたまま何をするでもなくぼんやりと視線を彷徨わせる。薄闇に沈んだ室内は昼間とは異なる顔を持ち何処か知らぬ空間に迷い込んだのかと思わせる事がある。時を刻む微かな音だけが満ちるこの部屋にふと気づくと大気に紛れる華の香の如く漂う気配があった。両手を宙に差し出し、まるで其処に形在る物質が存在するかにジュリアスはそれを抱きしめた。この世に放たれた闇のサクリアが彼の胸を満たす。安息と静寂と破壊を司るクラヴィスのサクリアは乾いた大地に落ちる一滴の水にも似てジュリアスの枯渇した心の襞に染みいるのである。
あの腕に抱きしめられる錯覚さえ生むほど、それは鮮明に彼の存在を伝える。あの少し低い体温に触れたと感じたのは、ジュリアスの思いこみだけではないのかもしれない。意味もなく躯を震わせた畏怖が陽光の暖に溶かされる最後の雪片の如く消えていった。
心を受け取るまで、きっと人を愛し愛されるのは溢れるくらいの充足をもたらすのだろうと思いこんでいた。
躯を繋がなくとも想いが互いの間にある溝を埋め、その上を吹く風が運んだ寂寥や鬱屈や諦めや涙を一掃するに違いないと決めていた。ところがこうして同じ地にあり憚ることなく言葉を交わし合い、ましてSEXに墜ちるまでになった途端逆にクラヴィスが遠くなったと感じてしまう。手を伸ばせば届く距離に居ながら、彼の心が微塵も掴めない。そして一度手にした物を奪われる恐怖が現実にあるのだと嫌と言うほど知ってしまった。
人の心にはきっと幾つかの小さな種子が植えられているのだ。
たった一人で生きていた時には知る由もなかった、いや実は知っている事に気づかぬふりをしていたそれらが愛に因って根を張り何時か花を付けるのである。
今ジュリアスの内で徐々に開花しようとしているのは、愛のもたらす深い哀しみの種子なのだ。捨ててきた感情を知ってしまった彼が流す涙で育ち始めた欠落を意味する小さなBulb(球根)なのだ。
確かにあった筈のサクリアは僅かな間に消えてしまった。それでもまだジュリアスは何かを抱き込むかに自身に両腕を廻し同じ姿勢を崩さない。
---凡そ己らしからぬ浅はかな葛藤を告げてしまったら…。---
また同じ迷いが思考を乱す。それでも言いたくはない。
どれ程あの腕の温もりを求めていたとしても。





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