*BLUB*
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宇宙には決して理解出来ぬ人知を越えた事象が起こる。それを科学と言う名の下に解き明かすも、人の望みであり無碍に否定する謂われなどないだろう。折り重なる不透明な切片を一枚ずつ剥がす様に解明していくのは、得も言われぬ充足感を研究者にもたらす。けれど幾らずば抜けた頭脳を駆使し、膨大な資料を検証しても解けぬ謎は存在する。それ故に、人は新たな不思議を求めるのではないか。
では、人そのものに関してはどうだろう。自らの内に在る諸々の願いや望みが如何なる物であるかなど、理解して当然だと思える。だが、それらが必ず叶うのかと言えば答えは否である。どれほどの努力を行っても、得られぬ物はあるのだ。だからといって最初から叶わぬと諦めきれないのが人の哀しさと言えよう。諦め、捨て去るにもそれなりの努力は必要であるし、図らずも手に入れてしまった故の悩みもまたあり得る訳である。
ジュリアスの予測は外れ、女王試験の正式な公布は彼が直接それを聞かされてから十日を過ぎた頃に手元に届いた。まるで計ったかに月の曜日の朝にもたらされた女王の言葉をそのまま定例となる朝議で伝えた時、意外にも大きなどよめきは起こらなかった。やはり年少の者からは驚きを含んだ囁きが漏れたものの、それ以外の者達は既に予想していたとみえ、嘆息にも似た溜息が僅かに聞こえただけであった。
集いの間での散会ののち、彼は自室でこれ以降の細かな予定に頭を痛めていた。研究院よりの大まかな流れを各守護聖に振り分けた詳細に纏めると同時に、間もなく着工される試験の為の飛空都市建設に自身の時間を当てる算段もつけなければならず、勿論これまで同様に現宇宙の維持も行うのである。時間が足りない。たった一人で押し進めるには物理的に不可能な量の責が彼の眼前に堆く積まれている。
筆頭であるジュリアスの補佐は次席である闇の守護聖が行う決まりとなる。女王の謁見のあったあの日、ジュリアスは彼に私事では会わない由を伝えてあった。だが、これは私事ではない。クラヴィスに相談するのは至極当たり前の事である。幾ばくかのわだかまりはあるが、この際そんな下らない感情で職務を滞らせるなどもっての外だとジュリアスは自身に強く言い聞かせ機敏な動作でデスクを離れた。
隣接する彼者の執務室の扉を開けジュリアスを出迎えたのは部屋付きの秘書官であった。
彼曰く、クラヴィスは朝議の後一度執務室に戻ったものの研究院からの要請で直ぐさま其方に出向いているとの事だった。
「戻るのには、まだ暫く掛かるのだろうか?」
「いえ、もうお戻りかと存じますが。」
秘書官は時計にちらと視線を送るとそう返した。
ならば…と彼は部屋の主が戻るのを待つこととする。但し、それほど悠長に待っている時間もあるわけではないので、あまりに帰って来ない様なら一度自室に戻るつもりであった。
壁際の長椅子に掛けると文官が間をおかず飲み物を運んで来た。受け取り一口を付けながらジュリアスは室内に目線を走らせる。厚い帳に閉ざされたこの部屋には悠久の薄闇があり、外部の喧噪やもしかすると確かに在る筈の時間の流れからも隔絶されたかの錯覚を呼ぶのである。
以前はこの薄暗さが苦手だった。今も決して手放しに好きだとは言えない。正体の掴めぬ何かが潜んでいる気がして居心地が悪いと思ったのは幼い頃であったが、今はこの静寂がかえって落ち着かない。
室内に漂う一種独特の空気に身を任せてしまうと自身の内に秘めた諸々を吐露してしまいそうな、そんな感覚に気持ちがざわめくのだ。クラヴィスに隠し事をしている今は余計にそんな風に感じてしまう。
『隠し事』と言っても、それは彼に対して不敬な秘事をいだいているのではない。ただ、ジュリアスが己の中で整理できない想いであるそれを言いたくないだけなのだ。
『ワタシハ…ナニヲサシダセバ…。』
享受するだけない存在。互いが同じ位置に在ったなら、分け合い与え合うは当然の理。しかし、今のお前は何を与えているのだと、精神の奥深くから囁く押さえた声音。
『ホシガッテバカリ…。』
あの時、闇の深淵に墜ちたクラヴィスが真に求めた物が分からない。そして、今ひとつ刻まれた怖れ。
他者に奪われる事。確かに在る筈の温もりが一瞬にして消し去られてしまうかもしれぬと言う恐怖の残像。それを如何にして自身の身の内で収めるかの術が見つからない。だから物理的な距離を置き、其処に生まれる欠落に慣れようとした浅はかな足掻き。求めまいとした稚拙な努力。彼者には知られたくないと思う、愚かしい虚栄。
それでいて心の奥底を暴き、包み込んで欲しいと願う傲慢な欲望。
どれをしても凡そこれまでの自身とは信じがたい狂おしい感情。手にしてしまった輝石の重さに喘ぐばかりなのである。
想いにからめ取られていたジュリアスを引き戻したのは扉の開く音だった。入室してきたのは当然ながらこの部屋の主である。
「珍しいな。」
クラヴィスはにこりともせずそう言った。
「今後の予定に関して色々とそなたにも働いて貰わねばならぬのだ。」
「だろう…な。」
デスクに持参したファイルを投げるかに置きながらクラヴィスは訊ねる。
「…で?」
「ああ…。」
立ち上がったジュリアスがデスクに歩み寄る。椅子に掛けるクラヴィスが降り仰ぎ次を待つ。
「私は試験開始までそちらに携わる事が増える。
その間、こちらの執務全般を任せたいのだが…。」
「全部か?」
「そうだ。」
やれやれと大仰に溜息をつく様にジュリアスの堅さを宿していた頬が幾分か緩む。
「次席なら当然だろう。」
「次席だろうと…難儀は難儀だ。」
差し出した書類を机上に広げ、詳細を説く為にジュリアスは少し身を乗り出す。指し示す指先を覗き込むかにクラヴィスの頭が動く。空気が呼応しゆらりと揺れた。彼の纏う甘さを含む香が俄に強くなった。ジュリアスを包むそれがあの熱に侵食される空間を思わせた。鼓動が早まる。が、そんな自身の変化など微塵も面には出さずジュリアスは淡々と先を続けた。
『ソナタハナニガホシイ?』
喉元に凝る問いは気を抜けば簡単に唇を割ってしまいそうだ。
躯が欲しいを言われれば、今この場で差し出しても構わないと願いながらもそれを否定する。欲しがっているのはクラヴィスではなく、己なのだと分かりすぎているから。
「まぁ…そんなところか。」
了解をクラヴィスが述べる。意識は半ば虚空に漂っていたが、その一言で全て現実へと舞い戻る。
「そうだな。しかし、不測の事態もあるやもしれぬ故そなたも普段通りの怠慢を決め込むなど出来ぬと心得よ。」
殊更に釘を刺しつつ、それが自身への自戒でもあるのだとジュリアスは苦い笑いを浮かべた。
「間もなく昼だが…。偶には共に摂るか?」
深い意味などないと思われるクラヴィスの誘いにジュリアスは簡素な拒否を返した。
「いや、まだ片づけねばならぬ事がある。」
「…そうか。」
彼もそれ以上を語らなかった。
昼尚暗い部屋の中央を真昼の煌めきが遠ざかってゆく。蜜色が背で緩やかに踊り、開いた扉の先へ消えていった。
眩い輝きに惑わされ、内に秘める何某かは決して顕わにはならない。本当は今一度その肩を掴み、問いただし白日の下に何もかもを晒した方が良いのかも知れぬと、幾日も胸中に繰り返した想いをクラヴィスはまた引き寄せるのだった。
扉に消える前、一度だけ彼の名を呼んでみた。
「ジュリアス。」
振り向いた顔には翳りなど見受けられず、厳しい表情の守護聖が何だと答えたのみであった。
「いや…、何でもない。」
開いた隙間から眩い陽光が室内の暗さを引き裂いた。
「それでは…。」
ジュリアスは普段通りの言葉を残し後ろ手に扉を閉める。白い真昼が廊下には溢れている事だろう。其処こそが彼の在るべき場所だと強い光が主張しているかであった。
聞くべきではないのだろう。彼が自らその言葉で伝えるまで待つ方が賢明なのだとクラヴィスは自嘲する。他者が踏み込んではならぬに違いない。彼は光を司る者なのだ。要らぬ詮索はともすればジュリアスを惑わすやもしれぬ。心根が定まるのまでの事である。それでも…。
「試験終了までは、些か長いかもしれぬ。」
そう言いつつ、クラヴィスは重い嘆息を押さえる事が出来なかった。
続