*Morality Slave*
=諦め=
「ああ…戻りたい。」
虚空にむけて放ったクラヴィスの一言が、静寂を突き破り漆黒の宙に響いた。一瞬すべてを包む黒い帳が震えたかの錯覚をよんだ。しかし先に問うた者は何も返しては来なかった。
再び返す、戻りたいと。
視線の先がぐにゃりと歪んだ。クラヴィスは咄嗟に瞳を閉じる。自身が目眩を覚えたのかと思ったからだ。そうではなかった。まさか返されると思わぬ答えに、闇の声が驚愕した為の事象なのではなかろうか。僅かの間をおき声が聞こえた。
『愚かな!』
やはり思った通りに空間を震わせるそれには、驚きの色があった。
『戻れば、再びあの愚かしい行為を繰り返す。この場に留まるなら永久なる安らぎに身を置けるというものを。ならば、何故そう望む?』
何故?そう問われたクラヴィスは思わず苦笑を漏らす。答えはただ一つ。あの者の傍らに居ると決めたからに他ならない。それ以外に戻る理由など持ち合わせていないと、クラヴィスは更に喉を震わせて笑った。
「あの地に人を待たせている。それ故戻りたいと言ったまでだ。」
迷いなど微塵もないクラヴィスの返答を受けた途端、闇色の周囲が大きく揺れた。それは嘲笑だったのか。守護聖である自身を否定し、聖地から出たいと繰り返し口にしていたのは事実であり、その想いは今も変わってはいない。ただこんな形でその望みを叶えようとは思っていない。だから今すぐに戻して貰おうと言い重ねる為、クラヴィスが口を開きかけた時、闇は思いの外あっさりと彼の要求を呑んだ。
『それがお前の望みなら戻るが良い。但し、扉は閉ざされている。扉の鍵を手に入れろ。鍵の在処は、その者に聞くが良い。』
それが最後の言葉だった。
その者?クラヴィスは怪訝そうに眉を顰め、大きく顔を巡らせて周囲に視線を走らせた。視線の遙か先に微かな灯りが灯るのが見えた。目を凝らすとそれは少しずつ自分に向かい近づいてくる。闇に浮かぶ灯火がだんだんと人の形になるのを見留ると、クラヴィスの口元が緩み確信に満ちた笑みが広がった。
土の曜日、真昼の守護聖殿は深閑とした空虚さを孕み、無人の居城を思わせる空気が漂う。幾人かの例外を除き執務が休みとなるため、此処にいる筈の者達の気配がないからであろう。いつもより射し込む陽の光が眩しく思えるのも、それ故かもしれぬ。
長い聖殿の廊下。等間隔に並ぶ窓とそれに挟まれる柱が、光と影のコントラストを作り出す。
ただ一つ響く靴音。手にした一枚の書類が流れ込んだ微風に、はらはらと煽られる。
彼はたった一人で廊下を歩いて行った。
誰も連れず何も言わず、前を見つめた鮮やかな蒼い瞳に決意の色を浮かべ。
王立研究院が伝えた一つの提案は、首座ジュリアスを一度瞠目させ、しかし彼から反論を受ける事はなかった。不確かな覚醒により未だ守護聖としての執務を執らぬ闇の守護聖への対応に関する提案とは、いつ戻るかも知れぬ彼の記憶を待つのではなく、今ここにいるクラヴィスと言う存在を守護聖となるべく導いていくと言うものであった。幸い彼のサクリアには何ら問題がない。それが最良の方法ならとジュリアスは承諾した。この世界がクラヴィスを切り捨て、闇の守護聖を望んだ事に彼個人の感情などを差し挟む余地などなかったからだ。渡された検案書を持ちジュリアスは言った。
「これは私から闇の守護聖に伝える事にする。」
そして、彼は一度として足を向けなかった闇の館に向かっている。
部屋の中央に座り込んだクラヴィスが扉の開く音に顔を上げる。手元には豪奢な装幀の書物が広げられていた。この宇宙の理を描いた挿し絵の入る童話は、ジュリアスもクラヴィスも幼い頃から幾度も読み返したものであった。
「本を…読んでいたのか?」
ジュリアスの問いにクラヴィスは頷く。蒼天の瞳を見つめるのはやはり他人に向ける眼差し。その姿形が全く変わぬ故に、かえってジュリアスの感情を揺さぶる醒めた視線。ジュリアスは胸に刺さった細い棘に、更に深くを突かれた痛みに呻く。だが、それも面に張り付けた穏やかな守護聖の顔に隠されて伺い知ることは出来ない。
床の上に直に腰を下ろすクラヴィスの前に、ジュリアスも膝をつき座る。
「そなたは、明日から私と聖殿に上がる事になった。少しずつ…守護聖としての執務を執れるよう、色々と学ばねばならぬのだ。」
分かるか?声を落としたジュリアスに、クラヴィスはもう一度頷いてみせた。
ジュリアスは思う。もしかしたら、今のクラヴィスの方が幸せなのではないかと。肉親との別れもなく、気付いた時にはこの聖地におり、すでにサクリアは体内に息づいている。宇宙の規律や守護聖のモラルを何の疑いもなく受け入れられる。これがクラヴィスの願いなのかもしれないとさえ思える。あれ程守護聖を嫌い己のサクリアの枯渇を願っていたクラヴィスが、それらの辛酸を抱いたまま自ら闇に堕ちたと考えても少しも不思議ではなかった。
ならばこれ以上無くした記憶を呼び起こす愚行を続けるべきではないのかも知れない。世界は闇の守護聖を失う事はない。これからも宇宙の恙ない運行は約束されたのだ。ただ一つ失われたものは、単に一個人の心の行き着く先に過ぎないのだから。
差し伸べられた手がジュリアスの髪に触れ、その毛先を細い指が弄ぶ。指に絡ませて不意に離すと、蜜色の一房はゆるいウエーブを描きハラリと揺れる。再び長い指が金糸を掴み、今度は大事そうにそれを撫でた。驚きに一度目を見開いたジュリアスは、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「私の髪に触れたがるのは…少しも変わらぬようだな。」
小さな溜息を零した後、ジュリアスは囁くように言葉を続けた。
「そなたは、そうして私の髪を撫でてくれた。覚えていないだろうが私たちはほんの小さな子供の頃から、共にここで暮らしてきたのだ。」
クラヴィスにはジュリアスの語る言葉など聞こえていないようだった。ただ飽きずに柔らかな髪を撫でている。
「いつも一緒だった。長じてからは…疎遠になった事もあったが、また共に時間を過ごすようになったのだ。そなたが、あの時…。」
『愛していると言ってくれたから。』
最後の一言は口に上らず震える吐息に変わった。
もう二度と名を呼ばれることもないのか。抱き合い唇を合わせることも。熱い波に呑まれ躯を繋ぐことも。何もかも闇の深みに消えていってしまった。そう思った途端、ジュリアスを悔恨の念が襲う。もし自身が思うようにこれがクラヴィスの真の望みだったなら、彼をこの地に縛り付けたのは己の浅ましい欲望だと思えた。クラヴィスが自分に想いを告げた事に慢心し、彼の与える優しさや安らぎを何の迷い
もなく受け入れてしまった。クラヴィスが何を求めるかを一度でも考えた事があっただろうか。
彼の何も要らぬと言う言葉に甘え、自身が何も返せぬ事実に気付かぬ振りをしていたのではないのか。
己が差し出すものが見つからぬなどと、体の良い言い訳に逃げていた狡さにジュリアスは胸のむかつきを覚えた。それに自分はクラヴィスのくれた「愛」に答えを返してもいない。互いに名を呼び合い激しく躯を求め合っていれば、そんな事を言わなくとも分かり合えているなどと、自分の都合の良い思いでそれを言おうともしなかった。クラヴィスがそれを欲していたかもしれないというのに。
「今更・・私は何を言おうとしているのだろう。こんな事を言われても、何も分からぬそなたには…迷惑な話だ。」
ジュリアスは憂いを含む切なげな笑みを浮かべた。
「でも、言いたかった。…一言だけでも。」
ジュリアスは強引とも思える強さで、目の前に座るクラヴィスを胸に抱き寄せた。しかし突然のことにも関わらず、クラヴィスはされるままに身を囚われジュリアスの肩に頭を預けた。
「そなたを、愛している。……誰よりも…。」
届かぬ筈の想いが室内の静寂に広がっていった。
その時…。
ジュリアスの腕に収まるクラヴィスの全身から、不意にすべての力が奪われた。グッタリとしたその重みを受け止めたジュリアスの驚愕に震える叫びが上がる。
「クラヴィス!!!!!」
闇は再び彼をその懐に連れ去ってしまったのか。
続