*Morality Slave*

=倫理の下僕=

『だから、私は彼を…刺したんです。誰よりも…愛してるって言ったのに…。』


女は跪いたままそこまで言うと泣き崩れ、最後に『お許し下さい。』と震える声で懇願した。それまで椅子の肘掛けに張り付いた様に動かなかったクラヴィスの左手がすっと上がり、細い糸にも似た闇のサクリアが注がれた。
女は僅かに顔を上げ『ありがとう・・。』と言ったあと、音もなく闇の帳に消えていった。そして気が付くと今度は小さな子供が椅子に掛けるクラヴィスの足下に膝をついて話始めている。現れた者は必ず自分の犯した過ちを語り、最後に決まって許しを請う。するとクラヴィスの意志とは無関係に安らぎのサクリアが放たれるのであった。
少年は言った。自分にだけ懐いていると思っていた子犬が本当は兄の方が好きなのだと気付いたので、悔しくて川に流したと。クラヴィスはうんざりと少年の話を聞きながら、かれこれもう何人の話を聞いているのかと考えた。自身がこの闇に囚われたと確信したすぐ後から、すでに10や20では収まらぬ人間の語る、彼らの愚行に耳を貸してきた。そして、彼らに望むだけのサクリアを与えた。また左手が上がり安らぎがもたらされる。少年は儚げな笑みを作り消えていった。
クラヴィスは思う。これが闇に呑まれると言うことなのかと。それはもっと穏やかで孤独なものだと思っていた。深い眠りにも似た時のない闇に包まれ、ただ明けぬ夜を過ごすようなものだと想像していた。
そして…。
『これでは守護聖と少しも変わりはしない…。』
口の端を微かに上げ皮肉な笑みを刻むと、クラヴィスは胸の内にそう言葉を落とした。


市井の民からすれば神にも等しい守護聖が、いったいどれ程の力を持っているというのか。
それが常にクラヴィスの持つ疑念である。自身では自由にサクリアを行使できる訳ではなく、女王の裁量でそれは与えられる。嘗て一度言った事がある。
『我らは女王の僕であり、意志を持たぬサクリアの器だ』と。
確かジュリアスに何故守護聖としての自覚が持てぬのかと詰め寄られた時に発した言葉であった。あの時ジュリアスは俄に青ざめ、そして哀しげに面を伏せて何も言わずに自分の前から歩み去ったのだ。いくら強大な力を持とうとも、すべてを救うことなど叶わぬのは恐らくジュリアスも分かっていた筈だ。
ジュリアスも勿論自分自身も聖地という籠に囚われた哀れな下僕で、それ故己は自身を嫌い、翻弄される運命を真っ直ぐに受け入れるジュリアスをこの上もなく哀れに思った。


何かを思えばそれは必ずジュリアスに結びつく。それ程自分があの者の元へ戻りたいのだと、クラヴィスは募る焦りの中で愛しい者の姿を思った。
聖地に、あの光の傍らに戻らねばならぬ…。一秒でも早く…。
例えそれが不条理な規律に従う事であり、宇宙の定めた理不尽な道徳の僕として生きるのだとしても。
『私は・・してはならない事をしました。』
陽光に煌めく聖地とそこに立つジュリアスの姿を思い描いていたクラヴィスは、次ぎに現れた人物の述べた一言に意識を引き戻された。目の前で深く頭を垂れる女性を見つめ、クラヴィスは信じられぬといった顔を作り思わず某かの名を呼ぼうとした。しかし、俄に思いとどまると切れ切れに語る彼女の言葉に耳を傾けた。


『私は、許されない相手と恋に堕ち一夜を共にしました。多分、二度と会うこともないのは分かっていながら、ただ…相手の面影を忘れたくないと…。そんな自分の…望みを叶える為に、子供を宿しました。』
女は粗末な服を着て、良く見ると素足であった。長い髪が俯いた顔を隠しその表情を読みとる事は出来ない。か細い声は震えていた。しかし、泣いているわけではないようだった。
『世間に認められぬ子供だと分かっていながら、私は…その子を産んだのです。父親によく似た男の子でした。息子と二人で生きてゆこうと…二人なら生きてゆけるとおもったのに。』
床についた両手を女は堅く握りしめ、感情の高ぶりに声が詰まる為か言葉を切ると一度大きく息を吸った。
『あの子は、遠い所に連れて行かれました。もう…生きて会える事もないのでしょう。私は、罰を受けたのだと思いました。 生んではならない子供を生んだ罪を償うために、あの子を…取り上げられたのだと…。』
クラヴィスは静かに眼を閉じると女性の語る一言一言を、心に刻むように聞き入っていた。
『私は、息子に謝らねばなりません。私の犯した罪をあの子まで償う事になったのに…。何も、言わないまま別れてしましました。あと一度抱き締めて…謝りたかった…。』
それ以上彼女は何かを言うことはできなかった。音のない暗闇に啜り泣きが聞こえ、それも瞬く間に黒い帳に吸い込まれ消えていった。クラヴィスの左手から今までと同じように安らぎが注がれた。
『ありがとうございます…。』
囁くほども微かな声が聞こえた。
閉じていた瞳を開き、もう一度女の姿を見ようとしたが、すでに彼女はどこにも居なかった。それまでと同様に薄闇に呑まれるように消えていった後であった。
彼女もまた世の定めた法という規律の僕だったのだ。


『あの場所に戻りたいか?』
それは声と言うよりはこの空間の中心に起きた振動が、瞬く間に広がりこの場全てを共振させているように思えた。成る程、とクラヴィスは思う。
今まで見せられたものをまるで守護聖と変わらぬと感じた自分の軽率さに可笑しさがこみ上げた。あれはまさにこれまで己のして来た事、それ以外の何ものでもなかった。あれが真の闇なのではなく、この後開かれるのが本当の闇への扉なのだと彼は確信した。この問いに答える事が扉を開く鍵なのだろう。
『戻りたいか?』
今一度問われる。
クラヴィスは心持ち視線を上げ、漆黒の空間に向けて答えを返すべく大きく息を吸い込んだ。





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