*Morality Slave*
=見知らぬ顔=
職員の後に続き寝室へと入ったジュリアスは、天蓋の付いた寝台の端に腰掛け自分を見るクラヴィスの視線の不安定な様子に思わず足を止めた。オドオドとして胸中の不安をあからさまに伝える眼差し。落ち着きがなく室内や窓の外を巡り再びジュリアスの顔に戻るそれは誰かに助けを求めているようでもあり、またそれすらも諦めているかにも思えた。
寝台の脇にある椅子に掛けクラヴィスの脈を取っていた医師が入室してきたジュリアスを見留め、ゆっくりと立ち上がると押さえた声色で言った。
「今現在分かっております事柄について、ご説明申し上げます。」
これはとても珍しいケースだと医師は言葉を続け、手にしていた新しいデータをジュリアスに示した。
結論から言えばクラヴィスは完全に覚醒しておらず、脳の一部が目覚めてしまった状態にあると彼は告げた。指でジュリアスの持つグラフを指し、
「この記憶中枢の一部のみが活動し残りの部分はまだ眠っていらっしゃると言って差し支えありません。グラフの曲線の大半に変化が見られないのがその証拠でございます。」
医師は丁寧な物言いでそう言うとジュリアスの顔を見つめ、その先を述べても良いかと目で確認の意を寄越した。ジュリアスは頷き、続く言葉を待つ。
運動や代謝などの肉体的活動は目覚めた脳の一部が十分に補っているため、日常の生活には何ら問題はない。ただし覚醒した部分の持つ記憶は、恐らく聖地へ上がる前の3〜4歳のものだと思われる。つまり此処が何処で自分が何の為にこの場所にいるのか、更に突き詰めれば自身が守護聖である事実を、今のクラヴィスに理解させるのは困難なことであった。それを聞いたジュリアスは瞠目し、一度息を吸うと消え入りそうな声で訊ねた。
「サクリアは、クラヴィスのサクリアはどうなっているのだ」
医師はそれについては問題ないと言った。不思議なことに闇のサクリアは現在の状況とは関係なく、クラヴィスの体内にありその強さも力も衰えてはいなかった。
「そうか…。」
そう答えたジュリアスは今自分が最も聞きたい言葉を求めても良いのかと思案し、だが多分欲しい一言など与えられる筈がないと諦め、それ以上何も言わず僅かに俯き医師の続ける説明に聞き入った。
「我々の話す言葉はほぼ理解しておいでのようです。ただ、文字はお読みになれません。それから、これは全く理由が分かりかねますが、何故か一言もお話にならないのです。」
顔を上げたジュリアスは思わずクラヴィスに視線を向けた。
それまで膝に置いた掌をじっと見つめていたクラヴィスが、不意に顔を巡らせ投げられた視線を受けた。ジュリアスを見るクラヴィスの顔。いつもと少しも変わらなく思えるが、全
く違っても見える。それはそうなのだろう。彼はクラヴィスであってクラヴィスではないのだ。己が守護聖であることも、しかもその筆頭として根元のサクリアを纏うことも、この目の前にいるジュリアスと幼い頃から共に暮らしたことも、そして彼に「愛している」と告げたことも知りはしないのだ。
「以上が現在お伝えできる全てでございます。」
医師はジュリアスと僅かに後に控えるリュミエールに目線を配りそう言った。リュミエールが、勿論ジュリアスも同じ言葉を発しようとした。今何よりも知りたい一言がまだ知らされていない。二人の訴えるかの視線を感じ医師は一度息を吐くと最後に…と何処か諦めたような口調で語るのだった。
「誠に残念ではございますが、どうすればクラヴィス様に完全な覚醒が訪れるかの方法は、まったく分かっておりません。」
午後の日差しの射す室内に深く沈痛な溜息が落ちた。
垂れ込めた闇の中に何かがある。それまで、この場所にはたった一つの色しかないと思っていた。暗がりのただ中で目が慣れてきたからかも知れぬが、遙か先にただ一つ周囲とは異なる色があった。それを色と言うのはいささか適当ではなく、ある一部の闇が薄いと言った方が正しいかもしれない。
クラヴィスは意を決したかに一歩を踏みだした。それは随分と慎重な足取りだ。まるで目の見えぬ者が足先を確かめて歩くような、そんなおぼつかない様子に見える。歩きながらクラヴィスは何度も己の向かう方向を確かめる為に周囲を見回し、再び目指す先を確認しては歩を進めていく。
それは仕方のないことだ。何故ならここには何の印もなければ、果たして本当に彼の足下に床が存在するのかさえ分からなかったからだ。月のない闇夜に海に漕ぎ出す小舟の如く、いつ襲い来る波に呑まれても不思議ではない。そんな思いを抱くくらい、彼を包む闇は深く恐ろしい程の静寂が降りていたのだ。
それでもクラヴィスは先へ進む。
だがその目指す先に在るものが現実への扉なのか、更に暗黒の最深へ自身を誘う奈落の淵なのかは全く分かってはいなかった。
続