*Morality Slave*
=覚醒=
膝に組んだ両の掌がじっとりと汗で濡れていた。自分が何故こんな時間に執務室を空け、馬車の伝える振動の中に居るのかジュリアスは不思議に思う。窓外には麗らかな光の射す聖地の景観が流れる。
『本当に今日は穏やかに晴れている。』
今馬車の進む道の両側に並ぶ木々が陽光に葉先を輝かせる様を眺め、これから自分が目の当たりにせなばならぬ事実とは全く無関係な事を考えた。いや、敢えて関係のない事を思い、自身のともすれば崩れてしまいそうな理性を必死で保とうとしているのだろう。ほんの半刻前に自室を訪れた使者の伝えた言葉。
『昨日の夜明け頃床に就かれて以来、先程になってもクラヴィス様がお目覚めになりません。』
彼はその後で補足するようにこうも言った。
『現在、担当の医師がお屋敷に伺い原因を調べておりますが、今のところ確固たる結論は得られておりません。』
この報告がジュリアスに与えた衝撃は予想を遙かに超えていた。ジュリアスには分かってしまったのだ。何がクラヴィスを深い眠りに誘い、そしてそこからの覚醒を妨げているのかを。
『闇に・・・囚われた。』
それはいつもジュリアスの頭の隅に居座る不安の種子であった。自身が纏う光のサクリアが持つ誇りや希望の力の裏に潜むその宿主を焼き尽くすかもしれぬ脅威があると同様に、クラヴィスのサクリアにも存在する二面性は他の者には決して理解など出来ない部分かもしれない。
その表裏一体の諸刃の剣をジュリアスも、もちろんクラヴィスも常に制御し従えているのだ。
何事もなければその行為は彼らにとっては極自然なことで、例えばまるで息をする如く行っている。しかし、この均整が僅かでも崩れたとしたら。また何かほんの些細な事象で制御し損ねたら。
いつもジュリアスはそこまで考えると、微かに自嘲の笑みを浮かべそんな在りもしない懸念を否定してきた。自分がサクリアを完全に制御しきれていると同じく、クラヴィスもまた彼の力を完璧に従えている。だが、この世に絶対は存在しない。そして今、その絶対が崩れたのは明かであった。
車輪の軋む音と共にゆっくりと馬車が制止する。
我に返るジュリアスは御者が扉を開ける前に、飛び降りるかに馬車を降り玄関に向かっていた。
広い邸内はいつにも増して静寂が降り、廊下をクラヴィスの寝室に進む自分の靴音が平素の何倍も響き渡っているように思えた。薄暗い廊下の先に扉が見える。ほんの数日前その部屋の寝台で自分はクラヴィスに抱かれ、そして抱き返し繋がれて夜を過ごしたのだと、ジュリアスは一歩進むごとに激しくなる鼓動を感じながら、あの時零した吐息の熱を思った。
扉を開けた時室内に居る数人が一斉にジュリアスに視線を向けた。寝台に張り付くように屈み込み、眠り続けるクラヴィスの診察を行う医師は二人。それ以外の三人は王立研究院から派遣された職員だと直ぐに分かった。そして、もう一人。
壁際に置かれた長椅子に凭れるように座る水の守護聖の姿があった。入室してきたジュリアスに、リュミエールは立ち上がり会釈を寄越した。何故ここにリュミエールが居るのかとジュリアスは怪訝に思ったが、その疑問は分厚いファイルを片手に近寄って来た院の職員からの説明ですぐに明らかになった。
今朝出仕したその足で闇の執務室を訪れたリュミエールは、そこにクラヴィスが居ない事を部屋付きの秘書官より告げられる。この時彼は思った。また今日もクラヴィスが出仕しないと言うことは、直ぐに首座ジュリアスの耳に入るだろう。そして、間違いなくジュリアスはクラヴィスを叱責するに違いない。
優しさを司るリュミエールは人の諍いを好まない。ましてや守護聖の中で最も慕うクラヴィスが、いくら彼に非があるとは言え頭ごなしに叱責されるのは耐え難い事実である。ならば自分が直接闇の館に赴きクラヴィスを出仕させようと考えたのはまさに彼らしい発想だと言える。
そしてクラヴィスの元を訪ねた彼が館の主の異変に気付き、医師の手配と王立研究院への報告を行ったという訳だ。
ジュリアスにファイルを手渡した職員は、どちらかと言うと淡々とした口調で現在確認されている事実を説明した。クラヴィスの眠りは常識では図れぬ深いものであり、脳波計の示すグラフでもそれは明かであること。しかし当初懸念した肉体的な原因は全く認められず、これが某かの突発的な病ではないこと。それ故様々な検査を施しても、今だ原因も的確な治療方法も分かりかねていること。
以上の説明を述べた職員は最後に「これはいささか蛇足ではござますが・・」と付け加えた。それは2週間ほど前、王立研究院を訪れた闇の守護聖が院の責任者を呼び、自分のサクリアに変調があると言い、出来れば何か外的な要因があるかもしれぬ故、調査をして欲しいとの依頼があったと述べた。結局その件に関しても調査結果は出ておらず、だが実際闇のサクリアがこのところ急激に増幅している事実だけが確認されたという事であった。
ジュリアスは己の手が細かく震えだすのがわかった。
「やはり・・・間違いない。」
誰に言うともなく彼は呟いた。ジュリアスが常に抱いていた不安が実際に起きたのだ。クラヴィスは自身の闇に飲み込まれた。そして、どうすれば救えるかという術をジュリアスは知らなかった。
バサリとファイルの落ちる音がした。次の瞬間この場の誰もが思いも寄らぬ事が起きた。
あの光の守護聖が突然寝台に駆け寄ると横になるクラヴィスの胸ぐらを掴み、気が違ったかの如く躯を揺すりながら大声でその名を叫び出したのだ。ジュリアスのすぐ傍らには医師がおり、その後には二人の職員が控えていた。しかし彼らは呆然と眼前の姿を見つめるだけで、誰もその行為を止める事をしなかった。恐らく出来なかったのであろう。
まさか首座の守護聖がそのような事をするとは思わなかったであろうし、繰り返しクラヴィスの名を呼び続ける彼の尋常ならざる様子に竦み上がってしまったのかもしれない。ただ一人ジュリアスを止めようとしたのは、誰よりも離れた場所に座していたリュミエールであった。弾かれた様に立ち上がると即座にジュリアスの後方に駆け寄りその細い肩を掴んだ。
「ジュリアス様!!」
リュミエールがそう声を上げたのと、それまで闇雲に名を叫んでいたジュリアスが突然一言を零したのはほぼ同時の事だと思われた。
「クラヴィス・・・・。」
閉ざされていた瞼がゆるゆると上がり、深い紫の瞳が現れた。予想だにしなかった覚醒が突如おとずれたのだ。
だが、これで全てが終わったわけではなかった。
続