*Morality Slave*

=空=

少し前を歩くクラヴィスが振り返る。髪が夕日の色を受け濡れたような深い黒に見える。
ジュリアスを捉えて離さぬ深紫の瞳。鋭利な顎の線が緩むと得も言われぬ優しげな笑みを作る。
一晩中降り続いた雨を含んだ大地は一足を踏み出すごとにゆっくりと沈み、今だ湿気を含んだ下生えが足下を濡らす。大きく息を吸い込むと雨と大地の香りがした。緋色に染まるジュリアスの髪に視線を向け、クラヴィスは吐息のようにひっそりと語る。
「この夕景を美しいと思うか?」
ジュリアス・・・。
時としてクラヴィスの投げる言葉の意味するところが図れず、ジュリアスは次の一言を待つ事がある。今もそうだ。何を思って美しいかと問うのか?だから、どう答えて良いのかが分からず、ジュリアスはただほっそりとした顔を見つめる。
遠くにある丘の稜線を金色の外郭を纏うかに浮かび上がらせ、間もなく陽は大地の奥へと沈もうとしている。数分前まで燃えるような紅に染まったジュリアスの髪が、忍び寄る夜の先触れに色を落とし始めていた。
なかなか次の言葉を発しようとしないクラヴィスに痺れを切らし、ジュリアスは
「ああ、美しいと思う。」
と声を落として答えた。彼を見るクラヴィスが更に穏やかな笑みを浮かべ、どこか満足そうに一度頷いた。そして、腕を差し伸べる。ジュリアスを何処までも連れて行く腕を。
それは、遙か天空までも彼を引き上げ、その後で今までジュリアスの中には存在しなかった、様々な感情を呼び起こす導きでもあった。愛される喜びや触れあう幸福や、そして焼け付くような情欲までも。招かれるままにその腕を取ると、瞬く間に胸に抱き込まれる。
いつも当たり前の顔でそれに従うジュリアスは、実はこの瞬間が例えようもない歓喜と不安を覚える時でもあった。永遠などがこの世に存在しないのは分かり切ったことで、ならばこの愛しげに触れてくる指先や決して離さぬと言うかに身体を拘束する腕も、いつか自身の傍らから去ってしまうのだと、ジュリアスの明晰な頭脳は理解しているし、それに抗えぬ事実を受け入れねばならぬとも知っているからだ。だから、こうしてクラヴィスと抱き合いながら、訳もなく身体が震えるのだとジュリアスは思う。次ぎに訪れる甘美な時の予兆だけでない、その裏に忍び寄る別離の予感に揺らされるからなのだと。


口づけはいつも突然に始まり、それはほんの数秒で熱い吐息を誘う。もう、この時はすでにジュリアスを苛む不安も意識の底に落とされ降り注ぐ歓喜の下に埋もれていた。絡み合う舌が二度とほどけぬかと思う幻想に意識を阻まれる。だが、急に解き放されると息を吐く僅かな間に舌先が唇の線を辿り舐め、慌てたかにその舌を追うと迎えるクラヴィスのそれは隠微なほども滑り、ジュリアスの上がる息も洩れる喘ぎも早まる鼓動さえ貪るように吸い上げる。
すべてを奪おうとするようなキスの最中(さなか)、僅かに開いたクラヴィスの瞳にジュリアスの濡れた唇が見えた。悩ましく自分を誘う艶やかな唇の紅。それが震える声で己の名を呼ぶ。
「クラヴィス・・・・」
と。
背をかける快感と至福の波。魂が呼応するかに肩にすがる者の名を囁く。
「ジュリアス・・・・」
と。


そして、口づけの終わりはいつも離れがたい切なさを伴い訪れる。1mmの隙間も許さぬくらい胸を合わせたまま、名残のうちに頬をふれ合いジュリアスはうっすらと瞼を上げる。瞳に飛び込んだのは一日の最後を飾る紫の空。昼と夜とが混じり合うほんの刹那に与えられる美しくも哀しげな色。恐らくこの世に二つとないクラヴィスの瞳と同じ。
首筋に廻した腕を引き、両手でクラヴィスの頬を包むとジュリアスは言った。
「クラヴィス・・、空の色が。」
一度柳眉を上げたクラヴィスが視線を空に移す。
「そなたの瞳の色と同じだ。」
美しい・・・・。心を奪われたようにジュリアスは呟く。
絹の糸より細い黄金の髪に隠れる耳元に声が流れ込む。
「この・・空が好きか・・・・?」
導かれるように言葉が引き出された。
「ああ・・、好きだ。」
ジュリアスの背に回る腕に力が籠もる。それは、例え何があったとしても、決して離さぬとでも言っているようであった。


宵闇はもうそこまでやって来ている。
二人を包む空気はすでに夜の香りがした。





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