*Morality Slave*
=真昼の祈り=
聞き覚えのある音。少し間を置き軽く扉を叩く音。
椅子に凭れぼんやりと窓の外を眺めていたクラヴィスがその方に顔を向ける。ゆっくりと引かれ開いた扉の先にジュリアスが立っていた。怒ったような表情を浮かべ戸口に立ったまま彼は一歩を踏み出しもせず、自身を見るクラヴィスをただ見つめていた。そんなジュリアスの様子にクラヴィスはふっと頬を緩める。胸に在る不安、葛藤、恐れ、迷い、苦悩、それらジュリアスに言わせれば決して誰にも知らしめてはならぬ感情を、しかしどうすることも出来ずにいる時決まって彼が作る厳しい面。それがかえってその心情をあからさまに伝えているなどと、ジュリアスは気付いていない。いや、クラヴィス以外の者達は端からこの光の守護聖に、そう言った諸々が内在するなどと思いもよらぬかもしれない。ならば、この彼の常より更に厳格にさえ見える顔の意味を知るのは、クラヴィスだけだと言っても差し支えないのだろう。
「どうした…?」
掛けられた声の響きが少しも変わらぬ事に、僅かばかり強張っていた肩から力が抜けるのがわかった。
「いや…。」
言いながら室内に踏み入ったジュリアスに微かな安堵の色が射す。白く褪めていると思えた頬が薄紅色に染まった。
クラヴィスは立ち上がりもせず、顔だけを横に向け隣りに座れと顎をしゃくってみせた。
だが、ジュリアスはそのクラヴィスの前に立ち、ただ見つめるばかりで何を言うでもなく、また座る素振りもみせない。たまらずクラヴィスが苦笑する。
「そんな…恐ろしい貌で睨むな。」
麗らかな陽射しに煌めく窓外から吹き込んだ微風が、豪奢な金髪を揺らす。クラヴィスの愛するそれに絡む風は、仄かな日溜まりの香りがした。
さぁ…。
延べられた腕に引き寄せられ、ジュリアスはゆっくりとその傍らに腰を下ろした。間近で顔を見合わせると、未だ空の高見をうつす瞳は射すほども真剣な輝きのまま眼前のほっそりとした顔を捉えている。視線が外れない。痛いほどの眼差し。それらが何よりもジュリアスの胸中を雄弁に語る。クラヴィスが闇に落ちた数日に、彼がどれほど不安に震え、覚醒を望み、そして最後には微かな希望すら宇宙の為に諦めた事を呪ったか。こうして向き合い、息の熱さえも感じるくらい近くにあっても、僅かに視線を外した途端、いや…たった一度瞬きをしただけで彼の目の前からその姿が消え失せるのではないかという想いに囚われそうする事しか出来ないのだ。
再びクラヴィスが微かな笑みを浮かべる。少しからかいを含む何かを言わんと薄い唇が開き掛けた時、ジュリアスのしなやかな腕が上がった。指先が恐る恐る額の生え際を辿り、流れる黒髪に触れ、頬の線を撫でた。間違いなくこの者がクラヴィスだと確かめているように、華奢な指先は行きつ戻りつを繰り返しながら、少し低い体温と内包するサクリアの波を感じていた。
されるままに居たクラヴィスが小さく語る。
「気が済んだか…?」
ジュリアスは何も答えず、黒衣の肩に額を預けた。その頬に黒髪が触れる。そして鼻孔を掠めるのはサンダルウッド。ジュリアスの躯に腕が廻され、何時もと変わらぬままに抱き寄せる。
耳に届く低く押さえた声音が可笑しそうな響きを含み囁いた。
「お前が一度も顔を見せぬから、とうとう愛想を尽かされたと思った。」
クラヴィスの完全なる覚醒を確かめた王立研究院は、彼に院内治療棟での検査を求めた。嘗てない今回の事態によるクラヴィスへの影響を懸念しての要請であった。それは数日を掛けて行いたいと職員は言った。しかしクラヴィスはその申し出をにべもなく断る。検査など必要ないと言い放ち、あんな無味乾燥とした室内に拘束され日がな一日監視されるなど願い下げだと、相手に反論の隙も与えぬ言いようであった。
だが研究院もそれで引き下がりはせず、これは陛下からの要請でもあると詰め寄った。流石の闇の守護聖もそれには承諾を返すしかなかったが、ただ首を立てに振ったわけではなく、それらを私邸で行うならと言う妥協案を寄越したのだった。
自身の館でなら四六時中監視されるワケでもあるまいと踏んだクラヴィスの思惑は、残念ながら見事に裏切られる。彼の私室には研究院から数々の検査機器が持ち込まれ、何人もの職員が派遣された。しかも彼らは昼夜交代制で終了までの幾日ものあいだ闇の館に詰める事となった。
結果、クラヴィスは煩わしい諸々をすべて自身の屋敷に招きいれる羽目になったのだ。勿論、その間ジュリアスが訪れる事など皆無であった。それはクラヴィスにしても予想していたことであった。別段互いの関係を隠すつもりなどジュリアスにも、またクラヴィスにもなかったが、少なくとも屋敷に詰める職員達は彼らの余暇を削り職務に就いている訳であり、そんな場所にいくら執務終了後であってもジュリアスが足を運ぶとは考え難い。しかしあくまで自身の屋敷であるが故、隙を見て光の館に出向くくらいは出来るとした考えが、およそ浅はかであったとクラヴィスが気付くのにほんの半刻もかかりはしなかった。腕に付けられた計器--恐らくこれは24時間の彼の心拍数・血圧などを逐一記録する為だと思われる--を外そうものなら隣室に控えた職員が間髪を入れず現れ、あっと言う間に直される。
終日監視下に置かれるのは、それが院内だろうと私邸であろうと、なんら変わらなかったのである。自身の軽率な提案に密かに悪態をつきながら過ごした数日も、昨日の夕刻で幕を閉じた。
そして、この日は土の曜日。昼も間近な時刻にジュリアスは訪ねてきた。
そんな事を言えば「馬鹿な事を言うな」或いは「冗談も大概にしろ」と窘められると思っていたクラヴィスは、思いも寄らぬ一言を返され続く言葉を収めた。顔を伏せたままのジュリアスは小さく言った。
「逢いたかった…。」と。
そう呟きながら背にある指が流れる黒髪ごと沙の衣を握りしめた。離すまい・・、そう言っているようだった。長い指が煌めく髪を一度撫でる。吐息にも似た声が名を呼ぶ。
「ジュリアス…。」
そっと顔を上げると寄せてきた唇が重なった。良く知った唇の温もりを感じ合い、差し入れられた舌は何故か軽く触れるだけで、常の強引さは微塵もなかった。ただ互いが望むままいつまでも決して離れる事などない様にと願っているかに思えた。
口蓋を舌先が幾度も舐める。ジュリアスがそれを追い、一度だけ絡み合い、ゆっくりと離れまた軽く触れあう。クラヴィスが微かに瞼を開くと紺碧の空がそこにあった。瞳を閉じることなく、祈る様な眼差しで唇を合わせるジュリアスを見た途端、クラヴィスの胸の奥底にあった苦い塊が疼いた。腕に力を込め更に抱き寄せ、それまでが嘘のような強さで絡めた舌を根本から吸い上げた。
何もかも、ジュリアスを揺らす不安も、翳りも、恐れも、彼に得も言われぬ顔を作らせるすべてを吸い上げ奪ってしまいたい。そう思った。それが叶わぬ願いだと分かり切っていても、叶わぬなら尚更そうしたいのだと。
ジュリアスの唇が空気を求め戦慄き、胸は忙しなく上下し浅い呼吸を繰り返す。朱に染まる濡れたそれにもう一度軽く己の唇を合わせたクラヴィスは、囁くほども密やかにこう言った。
「お前を置いて、何処かに行くつもりもないのだが…。まぁ…お前がそう望むなら…な。」
「ああ…。」
ジュリアスは瞳を伏せて答えた。乱れた黄金色の髪が顔に掛かる。それを払いもせずジュリアスは微かに笑んだ。宇宙の理の前では何の意味も持たぬ言葉かもしれないそれが、ひとたび放たれれば彼にとって何にも代えがたい印となるからであった。
しかし、そう言ったクラヴィスはどこか哀しげな顔をする。己の告げた一言が如何に無力で浅はかな虚言に他ならぬかを知っていたからだろう。
明日の朝、日の出と供に消えて無くなる星の瞬きよりも不確かな誓いであると。
この世の理に抗えぬ哀れな下僕。
それ故に、そうだからこそ、求め、繋がり、離れまいと足掻くのかもしれない。
運命の扉が開くその日まで。
了