*Morality Slave*

=導きの鍵=

『やはり…お前か…。』


闇の彼方から続く一筋の道を歩いて来た者に、クラヴィスは静かに声を掛けた。
その者は今まで現れた人々とは異なりクラヴィスの足下に跪くこともなければ、何かを懇願することも過ちを悔いることもしない。真正面からその貌を捕らえ、何にそれ程怒りを覚えるのかと問いたいくらいに、きつい眼差しで睨みつけてくる。良く知った蜜色の髪。抜けるほどに蒼い空色の瞳。ただ一つ違っているのは、どう見てもそこに立つ者が12〜3歳の少年である事だった。
「お前が鍵を持っているのか?」
クラヴィスが訊ねる。しかし返って来たのは苛立った一言だった。
「鍵などしらぬ。」
ほう…。クラヴィスは面白そうに目を細め、白皙に薄い笑みを浮かべた。
「鍵など私は知らぬ。それにもし知っていても私はそなたに教える気などない。」
「何故だ?」
少年は大きく息を吸い込み、張りのある声で言い捨てた。
「私は…そなたが大嫌いだからだ!」
上気した頬の赤みも、今より少し薄いブロンドも、クラヴィスの記憶にある姿と変わる事はない。そしてこの一言も幾度もジュリアスが自分に向けて言った言葉だと、クラヴィスは懐かしい思い出を目の当たりにして、また口の端に微かな笑みを刻んだ。
「そなたは私の言う事を一つもきかぬ。守護聖が嫌だなどと不敬な事を言って、何度も聖地を抜け出そうとする。」
ジュリアスは両手を堅く握りクラヴィスを糾弾する。
「人の輪の中へ入ろうとしない。周囲の者と円滑につき合う事も守護聖の努めだと、どうして分からないのだ!」
射るような眼差しでクラヴィスを睨み付け、間を置かずに更に言葉を続ける。
「二人で約束した事も忘れてしまったのか!」
「約束…?」
クラヴィスの問いにジュリアスは悔しそうに唇を噛むと一度視線を外す。押さえ切れぬ怒りで両拳が小刻みに震えていた。
「私たち二人で女王陛下の両翼として、頑張っていこうと約束したではないか。」
再び絡まった視線の先の紺碧の空を映す瞳が、怒りと悔しさに溢れてきた涙に揺れていた。
「ずっと二人で共にゆこうと約束したのに…。」
ジュリアスがそう言った直後、彼の姿が蝋燭の灯火を透かして見るようにゆらゆらと揺らめいたと思うと目もくらむ輝きに包まれた。たまらずクラヴィスは瞼を閉じる。
「ずっと私と共に居てくれると、そなたは言った。だが…もう、良いのだ。」
聞き覚えのある声色にクラヴィスはハッとして瞳を開いた。そこには恐らく現在の姿であろうジュリアスが立っていた。
「聖地から早く出て行きたいと願っていたから、守護聖としてしか生きられぬ私は…。そなたを拘束する枷にしかならなかった。」
そう言うとジュリアスはその美麗な面に虚ろな笑みを浮かべた。それは悔恨と自嘲を含む、決して誰にも見せぬ彼の心を映す顔だ。
「ジュリアス…。」
クラヴィスはそれ以上なにも言えなかった。互いの心を交わし、誰憚ることなく求め合っていると信じていた相手の胸の内に、その様な思いが存在するとは考えてもいなかったからであろう。
「私にそなたを止める権利などない。忌むべき力を宿してしまった運命から、こうして逃れる事ができ たのだ。戻って欲しいなどと、言えるはずも…。」
「なにを、馬鹿な…。」
自身を捕らえる闇の拘束から逃れ、ジュリアスの元へ駆け寄ろうとクラヴィスは渾身の力で身を捩り立ち上がろうと足掻く。だが彼の思いとは裏腹に椅子の背に張り付いた身体はピクリとも動かなかった。
「以前そなたは言った。私は女王の僕だと…。恐らく…いや、間違いなくそうなのだろう。今も宇宙が闇のサクリアだけを望むなら、それを受け入れようとしている。そんな私に…人に愛される資格など、ないのだ。」
そう言うとジュリアスは深く頭を垂れ、掛かる波打つ黄金色の髪にその顔は隠されてしまった。


何をか言わんとしたクラヴィスであったが、今目の前で自身の心の内に隠した想いを吐露するジュリアスに掛ける言葉など見つからなかった。ただ愕然と眼前に佇む姿を見つめていた。自分がジュリアスを深く理解しているなどと、何と独りよがりな慢心を抱いていたのかと思い、クラヴィスは目眩にも似た衝撃を覚えた。自分が考えているより遙かにジュリアスの心は脆く傷つきやすい事を知るに至り、何としてでもその傍らに戻らねばならぬと決意した。
「ジュリアス。」
その内に持つ筈の扉の鍵を、いや鍵を探し出す為の何かを聞き出そうとクラヴィスは強くその名を呼んだ。ゆっくりと頭が上がり、この闇の中でも冴えた輝きを宿す瞳がクラヴィスに向けられた。ジュリアスは数度瞳を瞬かせ、それから柔らかな笑みを浮かべてこう言った。
「もう…良い、クラヴィス。戻れば、また守護聖として辛い生を生きなければならぬ。だから、もう戻らなくとも…良いのだ。」
「それは違う!」
慟哭とも思えるクラヴィスの叫びが上がった。しかしそれは闇の虚空に霧散し、ジュリアスに届く前に消え失せた。
「ただ、私は一つだけそなたに伝えていないことがある。それだけは…聞いて欲しい。私は、誰よりも…そなたを…。」


弛緩したクラヴィスの身体を抱き締め、ジュリアスは一瞬何が起きたのか理解できずにいた。だが力の抜けたクラヴィスの重みを受け止めた腕が、止めどもなく震える出し胸を破るほど強く打つ鼓動に、頭を掠めた懸念が現実となった事を知る。闇は再び彼を連れ去ったのだと。
次ぎにジュリアスは思った。誰かを呼ばねばならぬと。それが誰なのかは全く分からなかったが、とにかくクラヴィスに起きた異変を医師か或いは王立研究院に伝えなければと、混乱する思考の中で周囲に視線を走らせた。
狼狽え、彷徨う視線がすぐ脇にあるテーブルの上に鈍く光るベルを捉える。驚きと恐怖に痺れる思考で、それでもジュリアスは的確にそれを理解する。館に使える者はその音を聞き逃したりはしない。片腕にクラヴィスを抱き、背筋を伸ばしそれを取ろうと残る腕を差し伸べた。その時だった。
「ジュリアス。」
聞こえるはずのない声に名を呼ばれた。弾かれた様に顔を返すと深紫の瞳がそこにあった。ジュリアスの腕に身を任せていたクラヴィスは、僅かに身じろぎ、そして少し困ったような顔で小さく言った。
「今…戻った。」


二人は床に座したまま互いの身体に腕を廻し、言葉もなくただ抱き合っていた。
ジュリアスが一度何かを言いかけ、だがそれは寄せてきたクラヴィスの唇で遮られた。今ここで離したら二度と触れられないと恐れるかに、重なった唇は深く長い口づけとなる。クラヴィスの腕がジュリアスの髪に差し入れられ、豪奢な黄金色の波をかき乱す。その指が与えるものは紛れもない安らぎ。そして、快楽の予感。渚に寄せるさざ波の如くひたひたとジュリアスの心を充たす。
それはクラヴィスにしても同じことだった。己の背を彷徨うジュリアスの指が伝える温もりは、不安も寂寥も恐れも海原の彼方に押し流す。熱い吐息を分かち合い、触れあったすべてが溶けて混じり、いっそ一つになってしまえたらと同じ願いを胸に刻む。あの一言が自分をこの地に引き戻したのだと、クラヴィスは合わせた胸に伝わる光のサクリアを確かめる。
しかし、よもや自身の言葉があの闇の扉を開ける鍵となったなどジュリアスは知る由もなかった。今彼に出来ることはこの愛する者を失うまいと、ただ背に廻した腕に力を込め抱きしめる事だけであった。
それ以外に何かを考えるなど、ジュリアスには出来なかったのかもしれない。
いつしか午後の日差しが朱を帯びるまで、時が過ぎるのも忘れ二人は唇を求めあった。


微かに離れたジュリアスの唇から吐息が一つ落ちる。それでも互いの身体から腕は解けぬまま、黒衣の肩に顔を埋めジュリアスが囁く。
「あまりに戻らぬから…待ちくたびれた。」
ふっと鼻先で笑ったクラヴィスが「そうか…。」と返した後密やかな声色で訊ねた。
「寂しかったか?」
くぐもった声が笑いに震えて答える。
「まさか…。そなたの執務までしていたのだ。」
それどころではなかった…。
「情のないことを言う。」
言葉とは裏腹にどこか満足げにクラヴィスは言うと、肩に預かる蜜色の頭を一度撫でた。
「クラヴィス…。」
「ん?」
「早く、皆に知らせなければ。」
ああ…。
しかし、そう言ったクラヴィスは、もう一度顔を寄せるとジュリアスの唇を奪った。それは己にたてた誓いだったのかもしれない。二度と再びこの傍らから離れぬという誓いを告げるキス。


その喜ばしい知らせが伝えられたのは、すでに大きく日が傾き聖地の空が紫に染まる頃であった。





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