*PRIMAL*

=7=

 背に流れ落ちる艶やかな黒髪。今は黒に見える夕暮れを映す瞳。蜜色の髪を撫でる細く長い指。語尾が微かに震える穏やかな声色。それが紡いだ言葉。
「お前を愛している。」
あの頃手を伸ばせばそこにあった幸福。光の中の小さな手のひら。ずっと傍らにあるものだと思いこんでいた。振り向けばすぐ後ろに。いつも・・・いつも・・・。
 手放してから気付いた。突風に木の葉が巻き上げられるように。一度手を離した温もりは二度と戻らない。ちぎれるほど手を伸べても、いくら欲しいと願ったとしても。優しかった面影は何処にもありはしない。それが何故いまここにあるのか。どうして今頃になって・・。



 ジュリアスは一度だらりと下ろした自分の手に視線を落とした。きつく握りしめた拳を開き自身の掌を見つめた。もしあの耳に届いた一言が偽りではなく、この手を差し出せば与えられる真実だとしたら。今度こそ失ってはならないと思った。
 しかし掴もうとした途端消えてしまう幻でないという保証が何処にあるのかと囁く声がす
る。それに…、どうすれば其れを得られるのかが分からない。何をすれば良いのか。何を言えばよいのか。閉じかけた心を開く術を…私は知らぬ。
 でも何かをせねば。何かを言わねば。ジュリアスは開いた両手を再び堅く握った。
「そなたは・・狡い。」
背に投げられたジュリアスの一言に思わず振り向くとサファイアブルーの瞳に射抜かれ、そ
の場から動くことが出来ない。暗い室内でもまだ蒼白く見えるジュリアスは、降ろした両手を握り睨むような眼差しでクラヴィスを捉えていた。
「何時もそうだ、そなたは勝手なことばかり言う。私の事など・・お構いなしに、何でも一人で・・終わらせようとして・・。自分に構うななどと言うくせに・・・・突然・・。そんな事を言われても、私は・・どうして良いかわからぬ。人に・・・私は・・今まで誰かに愛されたことなど・・ない。誰かを・・・・愛しているのか・・好きなのか・・。それが何なのか・・分からぬのだ・・。」
一度言葉を切るとジュリアスは大きく息を吸い込んだ。再び開いた唇が戦慄くかに震えた。
「でも・・そなたに憎まれていないと知って・・、良かったと・・・いや・・嬉しかった。
傍に居て欲しいと・・・・そう思った。ただ・・・私はそなたに・・何かしてやれぬ・・・。どうすれば・・良いのかが・・・・。」
そこまで言うと喉の奥が熱く痺れ何も言えなくなった。彼の明晰な思考が空転する。
 ただ何かを伝えなければという思いだけが、切れ切れの言葉を繋いでいた。小さな欠片を拾い集めようとする指先をあざ笑うかに、それらはスルリと指の間をすり抜けていく。それでも僅かに拾った言葉を絞り出そうとしたが、まるで胸の中に真綿でも詰め込まれたかに息苦しく、たまらず深く呼吸しようとした途端フワリと目の前を黒い衣で覆われた。
 頭の後ろに片手が添えられ、空いている腕が緩やかに躯に廻された。クラヴィスの指が柔らかく髪を撫でるのが分かった。頬を寄せ耳元に囁く声が聞こえた。
「ありがとう・・。」
己の愚行を許してくれたことに、この心を受け取ってくれたことに、傍に居てほしいと言っ
てくれたことに、そしてお前と巡り会えた奇跡に心から感謝を。
 降りてきた僅かな静寂には日溜まりの温もりがあった。木々の間を抜けるあの日の風の薫りがする。そして鼻孔を掠めるのは懐かしく甘い香り。クラヴィスの髪が揺れるたびに流れる、あの微かな白檀の・・・・。握られていたジュリアスの手が開き恐る恐るクラヴィスの背に当てられ、指先がピクリと動いた後ぎこちなく抱き返した。
「ジュリアス・・。」
泣きたくなる程優しく名を呼ばれ、肩に押しつけた顔を上げると降りてきた唇が頬に触れ、
次ぎにジュリアスの唇に重なった。互いの唇の感触を確かめるように暫し触れあい、更に深く重ね合わせるとクラヴィスの舌が微かに開いた口を割って口内を嘗められた。迎え入れた舌先が軽く触ったと思うと、一度吸い上げられ離れたそれをジュリアスが追い掛け、今度は根本から絡め取られて深く吸われた。気が遠くなるくらいの長い口づけの後、クラヴィスの肩に頭をもたせたジュリアスが小さくこう言った。
「そなたに、小言ばかり言う・・こんな私でも・・構わぬなら。ずっと・・・傍に・・・。
それから・・・、もう一度・・名前を・・・。私の名前を・・呼んでほしい・・・・。」
---何を言っている・・?---
呆れたように眉を上げたクラヴィスは可笑しそうに口元を緩めてから黄金色の髪に隠れる耳
に唇を寄せて『ジュリアス』と密やかに呼びかけた。
ああ・・・・。髪を撫でる指も躯を包む腕も自分の名を呼ぶ声も、何もかもが真実で手を伸ばしても消えることがないのだと思った途端、目頭が熱くなり溢れそうになる涙を堪えようとジュリアスは静かに瞳を閉じた。
 光の庭の風の中に響くクラヴィスの声が、今ここにあるのだと確信した。これから、こうして何度も名を呼ばれるのだろう。その度にきっと幸福だと感じるのだ。そして、自分もクラヴィスの名を呼び続ける。彼が幸せだと思ってくれるように。自分の想いが届くように。
人は愛する者に何度その名を呼ばれたかで、愛の深さを知ることができるのだから・・・・。





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