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零×ジャック//挿絵 by Kisara Shimizu

 この街は不思議だ。地上から離れ、地下深くに広がる。真似事の空は青い。時折、晴天の蒼さから降り注ぐのは滲み出た地下水だ。そして夜には満天の星。翳ったり曇ったりしない。いつも同じだ。紛い物は地球を真似、まるでここが異星だと認めていないようだ。フェアリーの空は濡れた緑色と鈍色と白銀色でできている。地上へ上がらない者はそれを知らない。退役のその日まで、この鮮やかな空色の下で暮らす。
 歓楽街や居住区、それいがいにも企業や工房などの産業区も、この地下都市には存在する。幾つもの防御壁と干渉空間を貫いて、上方へはエレベータが幾つも細い管のように伸び上がる。数多ある区域を繋ぐのは自動モノレールだ。オフィスから住居の集まる区域への移動はこれを使う者が多い。当然、通勤の時間帯はそれなりに混雑し、それ以外は比較的閑散としていた。


 行きつけのバーを出る時、ブッカーはいつもより若干飲みすぎたかと思う。喉へ流し込んだ量はそれほど多くない。が、昨日まで自室へも戻らず基地へ泊まり込み、仮眠程度で三日を過ごした肉体には、過分な酒量だったようだ。気分はすこぶる良い。ただ自分でも足下が覚束ないと感じる。恐らく端から見たら、酔っているのが丸判りだろう。其れに引き替え、最も親しい友人はスッキリした顔だ。機嫌も上々だ。しかし此方の男は、端から見て上機嫌だとは判りづらい。普段と変わらない無感情な無表情を張り付けている。腹を立てているとは見えない。でもご機嫌ですね?と声をかけるヤツは居ない筈だ。
 今の時期、フェアリーは冬季の真っ直中だ。外には数時間ごとにブリザードが吹き荒れる。それに合わせ、地下都市も冬めいた気温に設定され、コートを着る程度には寒さが漂っていた。
「冷えるな…。」
ジャケットの襟をかき寄せブッカーがモソリと呟く。
「あんた、結構酔ってるな?そんなに呑んでもいないのに…。」
もう歳か?と無礼千万のからかいが飛んだ。やはり機嫌は良いのだ。零が軽口を叩くのなど数年に一度と言っても過言ではない。
「オレの睡眠時間をあの妖精どもにくれてやったんだ…。その所為だよ。」
最後に大して酔っていないと付け足すが、それは強がりだ。実際、呂律が回っていない。粋がっても無駄ということだ。
 まぁ、一人で帰れなくなる泥酔ではない。ほろ酔いよりは幾分廻っている程度だ。送っていく必要はないだろうと零は考えた。そして歩き出す。肩を並べ駅へと向かった。
 道すがら自然と話題は苦労性の少佐が安眠を三日も削った辺りへ流れる。ブッカーは13機のシルフを相手に苦戦を強いられていたのだ。簡単に言えばシステムの微調整。通常の機体なら凡そ半日で終わる。だが彼の手がけるのは特別な妖精だ。あっさりとは終わらない。
「それでシルフはどう変わったんだ?」
「何も変わっちゃいないさ。」
「どういう意味だ?」
「お仕着せのスーツの袖を数ミリ長くしてやった…。そんな程度の事だ。着てる本人は気が付くかもしれん。今までちょっと短くて気になっていたなら歴然と違う。が、余所から見たら袖が数ミリ長くなろうと短くなろうと、どっちでも良いことだ。」
「具体的に言ってくれ。」
ブッカーのたとえ話は的を射ているのかもしれない。でも零はそれが内包する意味合いを探るより、端的に説明される方が好きだ。
「雪風に関して言えば、再試行を一つ削った。」
「削った?」
「今まで三度再試行を行えと定義づけてたんだが、それを二度にして最後は雪風に任せた。もう一度同じ事をする必要があるならそうしろ…なければ自分で判断した通りに進めってな…。」
「何故?」
「二度で充分だと判断したからだ。」
「誰が?」
「オレとメインコンピュータで意見が合致したんだ。」
雪風も異論はなさそうだった…。ブッカーは盛大に白い息を吐き出し、そう言った。
「俺にその変化は判らないのか?」
「多分…な。」
「そんな手応えのない仕事にプライベートを取り上げられたのか…。」
物好きだ…。零は鼻先で小さく笑った。
「オレもそう思う。」
照れた顔でブッカーも笑う。
 話題はそこから明日のフライトへ、更に流れて食堂の飯の話、ちょうど駅が見えて来た頃には冷徹な上司であるクーリー准将の愚痴に移っていた。
「オレに何か言えば全部形になるとあのバァさんは思いこんでるらしい。」
「一回くらいハッキリ言ったらどうだ?ジャック。」
「何て?」
「自分は准将が考えられる程有能ではありません…と言えば良い。」
「面と向かって言えってのか?」
「ああ、出来ないと言うだけだ。」
「その場で銃殺だ…。」
「銃殺はしない。」
「どうして?」
「部屋が汚れる。」
零は当然の顔で言い切った。ブッカーが大袈裟に吹きだしたところで、プラットホームへ上がるエレベータのドアが開いた。乗り込んだ途端、何故か会話は途切れる。小さな箱はグンと勢いをつけ上昇する。あっと言う間に地上数十メートルのホームへ到着した。
 モノレールはループラインだ。地下都市の周囲を大きな円を描き走行する。中途に分岐があり、居住区や工業区へも伸びている。エレベータから降りて一分と少し、やって来た車両は居住区までの路線だ。零はそれに乗る。ブッカーは乗らない。彼の住居は次に来る車両を使った方が近い。滑り込んできたモノレールの乗降口が鈍い圧縮空気の音を漏らし横へ滑る。壁に貼られた路全図の前から零が一歩離れる。
「じゃぁな、ジャック。」
愛想のない挨拶。振り返っただけマシかもしれない。直ぐに向き直り口を開ける車両へ歩く。
「零、気を付けてな。」
壁に寄りかかる男が声をかける。零はあんたこそ、座席で寝てしまいそうだと思う。だが言わない。無言で乗り込み、ドアの脇でほろ酔いの相手をただ見つめた。
 短めのジャケットの襟を立て、両手をポケットへ突っ込んだブッカーが零を見る。壁に背を預け、寒そうに幾分前屈みで、ドア脇の零をじっと見ていた。基地で会う時と違う。軍人の顔を忘れた、少し情けない表情は、憶えのあるツラだ。例えば部屋で呑んだ時、自分から明日も早いから帰れと言った後の顔。或いは言い出しづらい台詞を口にして良いかと迷った時の顔。プライベートで、多くはないが珍しくなく見かける面だった。零はこれを目にするといつも不思議な気分になる。何を迷うのか?何を言いたいのか?何を考えているのか?酷く気になる。他人などどちらでも構わない彼にしてはおかしな心持ちだ。そして更に不可思議なのは、このツラを拝むと無性に離れがたくなるのだ。傍にいても相手の思考など読めるワケではない。でも間近に在りたいと思うのだ。
 モノレールの停車時間はたぶん一分あるかないかだ。発車のアナウンスはない。出発を知らせるベルもない。ドアは開いた時と同じ湿った圧縮空気を吐き出しあっさり閉じるだけだ。そしてプラットホームを離れる。シュッと頼りない音がした。ドアがスルスルと閉まっていく。あと少しでここを離れる。ブッカーはまだあの顔で零を見ていた。吹きさらしのホームに冷え切った風が吹き付ける。男の今は褪せた色に見えるブロンドを乱す。きっと寒いのだ。壁に凭れた背が丸まって、上背のある上官はずいぶん縮こまって思えた。
「零?」
残りわずかの隙間へ躯を滑らせる。閉じきる前の一瞬を逃さず、零は再びホームに立った。ポカンと呆気にとられる相手へ歩み寄る。真正面に立ってジッと見つめた。さっきのツラは何だったのか?まるで確かめる風に…。
「どうした?」
「今、何を考えてた?」
「何をって、おまえ…。」
「気になって困る。」
「何の話だ?」
「あんたのことだ。」
「オレの?」
会話は全く噛み合わない。すれ違いも良いところだ。零は相変わらず短い単語を並べ、ブッカーは疑問符ばかりを口にする。
「なんの事かサッパリだぞ?判るように説明しろ。オレが何かしたか?おまえがわざわざ戻ってくるよう…っ。」
説明は苦手だ。矢継ぎ早に問われるのも得意でない。だから兎に角相手を黙らせたかった。零は躯を押し付け、そしてブッカーに接吻した。
 唇を押し当てる。柔らかな感触は好きだ。頬にあたる髭の触感も厭ではない。密着させ、相手の口吻を二三度吸った。腕は押し戻してこない。ブッカーは仰天したが抵抗はなかった。そのまま角度を付け、しっかりと唇を重ねる。同時に腕をまわした。抱き込まれたと判ったのか、相手の腕が腰へまわった。抱き締めるほど強くない。でも離れないよう、引き寄せる素振りはあった。零が舌で口唇を舐める。腰にある手が布地を握った。夕方まで端末のキーを叩いていた、長いけれど節の立った指が、零のジャケットをギュッと掴む。思わず舌を滑り込ませる。ブッカーの舌は戸惑っていた。逃げない。押し返しもしない。ただ不躾に侵入する零のそれに、困惑しているようだった。空かさず絡め取る。拘束して、軽く吸った。触れるほど近くの鼻先から、何かを感じたかの微音が漏れた。もう一度、幾分強めに吸い上げる。
「ん…。」
今度ははっきりした音が聞こえる。湿った音だ。低く、震える吐息に似ていた。



 次の車両がやってくるまでの四分半、それが長いのか短いのか、どちらも判断できない。やっと唇が別れたのは、近づくモーター音が聞こえ始めた時だった。寄り添う舌が離れる。名残惜しそうに一度だけ摺り合わせ、最後に零はブッカーの口吻を軽く啄んだ。腕が解ける。合わせていた胸の間に半歩の距離が生また。でも視線は交わったままだった。
「あんたの乗るヤツが来る。」
「零…。」
「なんだ?ジャック。」
「どうして…キスなんだ?」
そんな質問が来るとは思わなかったと、零は大袈裟に愕いた顔をした。
「戻ってきて…キスなんて…。まるでB級の恋愛ドラマだ…。」
ワケがわからないと文句を垂れ、最後にもう一度なぜキスなんだとブッカーは言った。蒼い眸が答えを待つ。
「あんたが俺を見ていて、寒そうだったからだ。」
「そんな理由が…あるか…。」
ブッカーが呟くのと車両がホームへ滑り込むのは同時だった。
「ほら、乗れよ…ジャック。」
零が肩を押す。少しよろけ、何か言おうとする相手を、パイロットの強さがドアの中へ押し込んだ。
「おまえは…?」
「俺は次か、その次だ。」
「零、おまえは一体……。」
全部を言い切る前にドアが閉じる。やはり少し湿った圧縮空気の音がした。
 モノレールは墨色の空間へ遠ざかっていく。零はプラットホームで突っ立っている。風がやたらと吹いてくるのに、今頃気づきジャケットの襟を立てた。結局、あの表情の理由は判らずじまいだ。しかし傍に居たらキスがしたくなったのは本当だ。もしかしたらあの男もキスがしたかったのかもしれない。そう思ったら大層納得がいき、零はそれを結論にして考えるのをやめにした。もしもまた、ブッカーが同じ面をしたら、その時もキスをしてやろうと零は決める。こんな場所でも嫌がらなかったのだ。きっと基地の中でも大丈夫に違いないと、誰も居ないプラットホームで男は想った。







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