昇る朝日浴びて
銀時&全蔵
夜が白み始めている。真上の色は黒と群青色を混ぜたようだ。でも屋根の連なりの低い辺りが、薄く水で薄めた色に変わってきつつある。耳を峙てなくとも、鳥の音がやかましい。チッチッと短い囀りに混じって、野太い鴉の声もした。夜中に出したゴミを漁っているのだろう。ここは人の住む街の真ん中だ。未だ眠りの中に沈んでいる人の気配も、あと1時間するかしないかで、徐々に顕わになってくる。全蔵は腕の文字盤を見た。デジタルの数字がそろそろ四時も終わると示している。
「明けんの早ぇなぁ…。」
半月前はもっと遅かった。確か五時を過ぎても陽の先触れは欠片も見あたらず、いつまでもしがみつく夜は、それから半時間以上過ぎてから形を潜め始めたはずだった。
もっそりと呟いてから、彼は頭上を仰ぎ、それから周囲を見渡し、無人の往来の様が、僅かずつ明るさを帯びてくるのを確かめると、なにやら思案する顔を作る。人が活動を始める前に、この場を立ち去るのが懸命だ。それは重々承知している。けれどここまで来て、気が抜けてしまったのか、尻は階に貼り付いたように重く、立ち上がるのが億劫で仕方がなかった。気持ちに重しがぶら下がっている感覚。それは今が初めてでは決してないが、随分と久しぶりに味わってみると、やはり鳩尾あたりに苦いような不味さが溜まっていて、それが立ち上がる気持ちを挫くのだ。
実際、依頼の内容はチョロかった。そうとうに大きな屋敷だったが、そこの警備を具に調べ、伝えるだけのこと。屋敷付きの侍は幾人居るとか、その配備とか、雇い入れた用心棒風の数とか質とか。正面と裏手、勝手口へ入る木戸の錠がどうなっているか、堅牢か見かけ倒しか、最近はやりのセキュリティシステムへ直結したサービスを施しているのか、いないのか。外部から見た様子、忍び込んで確認した実態、小石を放り投げてどの程度の反応を示すか、わざわざ見回りの前へ姿を晒し、軽く煽ってその手腕を探る。これまで何回行ったか覚えていないくらいの手順。だからと言って片手間に気を抜いて臨んだわけではなかった。が、屋敷の白壁に沿って予め目星を付けていた退路を行き、低い枝に隠れ土塀を軽く越えようとした時、視界の端で何かがチカと光る。次に右肩へ小石が直撃したかの当たりを感じ、更に焦げ臭さが鼻をついた途端、一気にバランスが崩れ、何とか塀の端を蹴って通りへと降り、そのまま待ち受ける先方の伝令と落ち合って総てを伝え、そこから先は闇雲に路地の裏を駆け抜けた。
依頼は完璧にこなした。が、最後の最後で単純な仕掛けにかかったのは、あきらかに自分の失敗だと全蔵は苦々しく舌打ちをする。動くものに反応する仕掛けだろう。精度も低いはずだ。お粗末なカラクリの類だ。あれだけ人を使い、最新鋭の警備を施してあったから、逆にお粗末すぎて見落としたのだ。もしかしたら、ずいぶん以前に仕掛けて、撤去するのを忘れた代物かもしれない。そのくらい役に立たないものだった。
追っ手がない、通報もされていないと確認するまで、距離を行った。ホッとして足を止め、辺りを確かめると、見知った建物がある。知り合いの家宅だ。外階段を昇れば、其奴の住まいの玄関がある。ここまで来たかと思う。思った途端、気が抜けた。そして階の三段目へ座り込んだ。尻は其処へへばりついて、そろそろ明け始める空を眺め、腰を上げようとするも、足はふんばろうとしない。
「ダセェよなぁ…。」
まさに現在の自分を表すのに、ピッタリすぎるそれを口にしたら、妙に可笑しくて笑えてきた。
微かな音が口笛だと気づいたのは、それがかなり近くまで来た時だった。人が来る。ゆっくりとだが、確実にこちらへ向かってくる。立ち去る潮時だ。全蔵は腹を括って両膝へ力を込めた。無意識に手摺りへ手を伸ばそうとして、右の腕がさっぱり上がらないのに気づく。少し俯いた男が、また口の端を引き上げた。苦りきった笑いだ。
「…ったく使えねぇ。」
立ち上がりながら、自身へ吐き捨てる。
「なにが使えねぇーって?」
すっ惚けた声した。仰天してガバッと顔を上げる。すぐそこに、恐ろしく眠そうな男が居た。通常の三倍以上の濁った両眼で、全蔵をぼやっと眺めている。
「なんでもねぇよ!つーか、なんでお前、ここに居んの?寝てるだろ、普通なら。」
「いやぁ〜。」
弛んだツラを更に弛ませ、銀時はニヤニヤと顔面全部で笑う。
「昨日はさぁ、パチンコが莫迦みてぇに出ちゃってさぁ。まぁ、呑み行ったんだけどよ。そーしたら、知り合いに会っちゃって、なんか妙に盛り上がって、気が付いたら朝んなってたのよ。」
「そりゃ、良かったな。」
平坦に答え、じゃぁな…とこの場から離れようとした。
「なに?どっか行くってか?」
「そーだよ。」
「まぁ、イイけど。つーか何か用とかあった?」
「ねぇよ。」
「じゃ、さっさと退いてくんね?オレんちに行けねぇから。」
ああ…と不景気な反応を残し、いよいよ背を向ける。隣家との間、細い路地へと消えて行こうとした。
待てと声が飛んだ。同時に左の腕を掴まれる。振り払う隙もなく、それをぐぃと引っ張られた。
「んだよ!」
銀時は答えない。前へ視線を据えたまま、ズンズンと階段を昇っていく。離せと言った。少し声が大きくなりすぎた。
「テメェ、離せっつってんだろーが!」
クルリと顔が返る。
「オメー、声デカすぎ。」
囁くくらい声を潜めた銀時の言いようは、普段と同じ緊張感の欠片もない腐抜けた調子だった。でも数段下に居る全蔵を見下ろす双眸は、爪の先ほども淀んではおらず、勿論笑ってもいない。少し怒っている風にも思えた。
ガラリ戸を開け、上がり框で先に長靴を脱ぐ銀時は、流石に手を離した。顎をしゃくるようにつぃと動かし、さっさと上がれとうながす。もうこの時点で全蔵は逆らうことを諦めていた。相手が黙ったままなのも、強引すぎる態度も、怒ったかの眼差しも、全部に合点がいきすぎて、拒んだり逆らったりすべきでないと判じたのだ。仕方なしに履き物を脱ぐ。片手では些かやりづらい。モタモタしている間に、銀時はすっかり長靴を脱ぎ捨て、やはり無言で奥へと入っていった。少し遅れて後へ続く。開けた唐紙の先、長椅子を指さす男は、さっきよりも潜めた声で、そこへ座れと言った。
全蔵が長椅子の端へ遠慮がちに腰を降ろすと、銀時は同じ調子で衣服を脱げと言う。何か返そうかと全蔵は迷う。例えば『エロい事考えてんだろ?』とか『朝っぱらからソレかよ!』とか。部屋中に蔓延る居心地の悪さを、普段通りの台詞で何とかしようと足掻くことを考えた。が、結局彼はなにも言わず、モゾモゾと不自由そうに左手を動かして服を解き始めた。少しの間、その様を見ていた銀時が口を開いた。
「それ、切った方が早ぇな…。」
どうせもう着れねぇだろうし…。
勝手に結論し、戸棚から鋏を出す。全蔵に断りもなく、動くなと偉そうに命じた直後、襟から一気に胸前までを裁ち、更に横へと切り裂いた。ジャクジャクと布地が裁たれる音を聞きつつ、しかし全蔵は文句も垂れず、自分の膝頭をジッと見つめていた。
「おぉ!スゲーな。」
顕わになった部分を見た銀時が面白そうにも聞こえる声で感想を述べた。
「なにでヤラれるとこーなるわけ?」
「知らねぇ。」
「焼けたみてーになってんぞ?」
「レーザーとか、そんなんじゃねぇか…。」
成る程と頷き、ヨッコイショと年寄り臭いかけ声を残し、銀時はゆるりと部屋を横切る。どこの家にもある、薬箱を手に戻ってくると、もう一度ヨッコラセとやる気のないかけ声と共に、全蔵の横へ座った。
思いの外、手際よく手当をする男は、しかし意地の悪さは相変わらずで、疵の様子をいちいち解説して寄越す。それは今し方までの黙りが錯覚だったかと首を捻るくらいの騒々しさで、実は銀時なりの気遣いかとも思ったが、聞こえてくる諸々は確かに喜んでいる以外の何ものでもないから、全蔵は持ち上げかけた相手への評価を、これまでと同じ辺りへストンと落とした。
「ちょっ、すっご肉とか抉れてんですけど〜。」
「皮が焼けちまってんの。ヤベーなこれ?」
「おわ!拭いたらまた血が出てくんですけど!これスゲくね?」
どうやら背後から肩を掠っていったモノは、衣服と皮膚とその下の肉まで裂いているらしい。消毒薬で丹念に拭われると、飛び上がるくらい鮮やかな痛さが疵を襲った。
「っ…。」
切られて撓み落ちた服の布地をギュッと掴んで声を殺す全蔵を余所に、銀時はやけに嬉々とした調子で、執拗に詳細を垂れ続けた。
ガーゼの上へ油紙を乗せ、絆創膏で入念に止める。今まで何度も同じことをしてきたと判る、手慣れた動きで銀時は手当を終えた。
「なぁ…。」
「あ?」
「お前、手当とか妙に上手いな?」
「あ、オレ…ナースだったから。」
当たり前のように銀時が言った。
「マジか!すげぇな、ナースか!」
面白くない冗談で質問を受け流す時、銀時はその話題を避けようとしているのだ。最近全蔵はそれに気づいたから、敢えてナースに乗った。銀時が避けるのは、今より以前に話が向かおうとすること。過日の大戦へ、話題が流れること。それらを隠していると言うより、口にしたくない雰囲気がチラチラと覗く。全蔵も是が非にも聞きたいとは思わず、だから相手が法螺でやり過ごすなら、それに合わせることにしていた。
手当を終えると銀時は薬箱を手に立ち上がる。もと在った棚へ置き、長椅子へ戻らず、唐紙で仕切られた奥の部屋へ消えた。取り残された全蔵は、改めて自分の情けない有様を確認する。上衣はすっかり切り裂かれ、銀時が言うように捨てるしかない。垂れ下がる布地を見ると、血液が生地を別の色味に見せるくらい、染みこみ広がっている。独特の生臭さが鼻をつく。捨てて、何か着るものを借りなければならない。或いは自宅へ連絡し、使いの者に衣服を持って来させるか…。二つの選択肢を決めかねているところへ、弛んだツラの男が戻ってきた。
「パフェ5杯な。」
放り投げた黒っぽい塊がバサリと全蔵の前へ落ちた。
「んだよ?」
「これしかねーのよ。」
片手で足下から引っ張り上げれば、それは地厚の外套で、今の時分に着るには少々重すぎる代物だ。
「上から羽織ってきゃ、取り敢えずは家まで帰れんじゃね?」
「いいのかよ?」
投げた問いに含まれるのは二つ。借りて構わないのか?と、血の臭いをまき散らす己に貸しても平気なのか?の意味。
「いいって。だからパフェ7杯な?」
「微妙に増えてねぇか?」
「増えてねぇし。」
ニヤニヤと締まりのない面が全蔵を見下ろす。このままやり取りを続けたら、瞬く間に奢る数が増えそうだ。全蔵は潮時だと腰を上げた。
借り物はそれなりに仕立ての良い外套で、羽織ってみれば思った通りの重みがある。前の合わせを片手で器用に止めていると、布地からふわりと樟脳が香った。ずっと袖も通さず仕舞い込まれた衣服かもしれない。
「いいのかよ?」
思わずもう一度同じ問いが洩れた。
「だからイイって。使ってねぇし。」
やはりそれは、箪笥か押入の奥にひっそりと仕舞われていたものらしい。適当に押し込めてあったわけではない。その証拠に、畳んだ折り目は付いていたけれど、布地の何処にも皺が寄っていなかった。
「ほんじゃ、借りるわ。」
「おお、パフェ10杯な。」
数分でまた数を増やした強引な謝礼に、全蔵は苦く笑う。口の端をその形に緩めたまま、部屋を出て玄関の框へ腰を降ろす。少々難儀しながら履き物をつけていると、背後に立った男のぼんやりした声が聞こえた。
「忍者のクセにダセェよな、まったく。」
忍者のくせには余計だ。しかしダセェのは当たっている。
「っせぇよ。」
器用に動く片手を止めず、全蔵はボソリと言った。
「次ぎはちゃんと家帰れ。」
「はい?」
脈絡なく落ちる一つづり。意味が図れず顔だけを返すと、眠そうな面の銀時は、出くわした時と同じに怒った風な表情を張り付けていた。胡散臭い匂いをまき散らし、厄介事を持ち込むなと釘を刺しているようでもあり、厄介だと知っていながら手を出す己に辟易としている風にも取れる。銀時の真意を知ったところで埒もないと承知している全蔵は、クルリと顔を戻すと『もう、来ねぇよ。』と憎まれ口めいたいらえを低く返した。
がらり戸を開ける。空はすっかり朝の色味に変わっていて、しかし家並みの下から白んだ蜜柑色の光が顔を出すのは、あと僅か先らしい。雀の音だけが、更に一層騒々しく彼方此方から聞こえる中、夜の色を身につけた全蔵が、辺りの気配に意識を向ける。人は未だ起きだしていない。
「手間かけたな。」
「まぁ、パフェ12杯で赦してやっから。」
まだ増え続ける謝礼の数。失笑混じりに軽く片手を上げた次ぎの瞬間、跳躍と共に男の姿は隣家の屋根の上に在った。右の腕をダラリと垂らしたシルエットが、次々と屋根を蹴って遠ざかる。
「ダッセェ。忍者のクセに…。」
落っこちろ…と呟きながら、徐々に小さくなる全蔵を眺めていると、待ちかまえていた風に鮮やかな光をまき散らす歪な楕円が空の端から昇り始めた。眩い朝日を浴び、あっという間に黒点となる男が、すっかり消えてしまうのを見届けると、銀時は顎が外れんばかりの大あくびを垂れ、一つ怠そうに伸び上がり、踵を返して家の中へと戻っていった。
了