ただ雪を見ていた

銀時&全蔵

 昼すぎから空気は特有の匂いを抱えていた。それに気付き、一度空を仰ぎ自分の目で確かめて、今日は残業しないで帰ろうとか、一杯呑むのは控えようとか、それぞれにうっすらとした決意を固めた。そういえば…と今朝の予報で、にこやかにお天気お姉さんが早ければ夕方からと、言っていたのを思い出す輩もいるだろう。珍しく予報が当たるかもしれないと、外套の襟を立てる者もいたはずだ。結局予報は半分程度的中して、寒暖計がこの冬一番の寒さを知らせる宵の鳥羽口ころ、はらはらと白い粒が低い夜空から落ち始めた。
 そしてすっかり夜が腰を据える時分には、決して止まないと思わせる勢いで、雪はこの街をどんどん塗り潰していった。はすっぱで、猥雑で、妙に人懐こい灯りで溢れる歓楽街も、低い屋並の連なる仕舞た屋の群れも、無駄に広い庭に囲まれる屋敷町も、万遍無く同じ色に塗り替えられた。


 朝飯を食ったは良いが、寒いばかりですることもない。ごそごそと布団に潜りなおすと、しばらくの間は神楽が唐紙越しに牛になるだの、爺臭いだの、やる気のなさへ悪態を吐いていた。が、銀時が適当な相づちを打ちつつ、うとうとし始めたから、愛想を尽かして表へと出ていった。急にしんとした部屋で半分くらい彼方側へ意識が飛ばし、でも残りは現状をぼんやりと認識しているのは、何より心地よい。布団の中はぬくぬくと離れがたさを募らせる。いつのまにか寝入っていたのも一瞬に違いないと、銀時は顔だけを動かして目覚ましを覗き込む。ハッとするくらいの目覚めに見開いた両眼に飛び込んだ時計の文字盤は、もう昼飯の時刻も疾うに過ぎたと教えていた。
 ありゃ〜と空気の抜けたような声。惰眠を貪っていた間はそれなりに幸福感を覚えていたはずが、いざ現実に引き戻されると、妙に損をしたふうな心持ちになる。もっさりと起き上がり頭をほりほりと掻いている仕草は、確かに何かをしくじったかに見え、締まりのない口から、やっちまった…とこぼれる様から、この怠惰を絵に描いた男も、やはり寝すぎたのだと感じているのがわかった。
 のそりと布団から離れ、曇った窓硝子を手のひらで拭う。歪んだ四角で切り取られた風景は、どこも白く見慣れた屋根がよそよそしく並んでいた。皺くちゃになる着物を適当に直し、外套を羽織って襟巻をぐるりと首に回す。玄関をからりと開け、視界いっぱいに映る様変わりした近隣の景観を数秒見てから、だらりとした足取りで往来へと出た。行く先は特にない。訪ねる人のあてもなかった。ほっと吐き出した息の白さに、思わず寒ぃと垂れる。寒いなら部屋で今し方のようにゴロゴロしていたら良いのに、わざわざ出かけたのは、久しぶりに降った盛大な雪を見物したい気持ちが欠片くらいあった所為だ。
 建物の高さが変わり、人の顔ぶれも、すっかりと入れ替わって、集まる輩が増えたからか、冬に積もるほども雪が降らなくなって久しい。未だ踏み固められていない処を撰び、ギシギシと鳴る雪の感触を確かめつつ、銀時は何処へともなく歩き出した。空は相変わらずの曇天で、今にも雪片が落ちてきそうだ。積もった白さの上を撫でて吹く風は、恐ろしく冷たく、尖ったエッジで剥き出しの顔を直撃する。四つ辻を三つばかり過ぎた辺りで、やはり戻ろうかと迷うくらい、空気は冷たく、人は疎らだ。目指す先もなくウロウロするにはたいそう厳しい。取り敢えず、行き場を決めた方が賢明だと思いつつ、それでも茫洋としたツラの男は、足を止めず踵を返したりしなかった。
 ガキの時分、今よりずっと空が高く見えた頃、冬になれば決まってドカドカと雪が降った。朝起きると目に飛び込む全部がキラキラと眩くて、それが嬉しいと素足のまま外へと駆けだしたものだった。後ろから呼び止める声。聞こえないフリはその頃から得意技で、優しげに幾度も名を繰り返す声音を振り切って一目散に庭を突っ切る時、おかしな優越感で顔が盛大に笑っていた。誰も歩いていない地面に足跡を残す嬉しさ、自分だけを飽きずに呼び続ける声のくすぐったさ、それらがない交ぜとなり、銀時は積もったばかりの白さを蹴り上げてずんずん先へ行く。この男の中に在る、一番古い冬の情景は、臍の下辺りから幾らでも湧き上がってくる、幸福な優越感で溢れかえっていた。
 フラフラと歩き回ったあと、屋敷町の方角へ向かったのは、恐らく『庭』と言うファクタが頭の片隅に引っ掛かっていたからだろう。他人様の屋敷へ勝手に忍び込む趣味はない。誰も足を踏み入れていないふっかりした白さを特別見たかったのかと自分へ訊いても、はっきりした答など持ち合わせない。ただ何となく、足がそちらへ向いただけの話だ。大通りから一筋奥へ入ると、両側に白土塀の続く一画になる。そこまで来て、フッと頭に浮かんだのが、断りもなく入っても咎められそうにない一軒の屋敷だった。互いの家を訪ね合うほど親しくはないが、入った途端通報される事もない程度には見知っている。一度訪ねた記憶だけあれば、充分たどり着ける。急遽決定した目的地へ向け、銀時はのっそりと足を進めた。


 屋敷の主人は大して愕きもせず、無断の侵入者へ普段と同じ台詞を投げた。
「どっから入ったよ?つか、なんで来た?」
大仰な門は開いていたから、そこから入ったと銀時が言えば、閉めてなかったか…と首を捻る。
「なんで…て言われてもなぁ。思いついたからっつーか、ちょっと訪問でもするかって感じだから。」
相変わらず的を大幅に外したいらえしか戻らず、全蔵はいつも通りにさっぱり分からないと苦笑するしかない。
「まぁ、言っちまえば雪見に来たってことなんだけどよ。オレはアレだ、侘び寂びを嗜むふーりゅーなトコあっからさ。」
勝手に奥まで入り込み風流もないものだと全蔵は更に苦笑いを張り付ける。
「つーか、おまえこそ何やってんの?そんなトコに突っ立ってよ。」
「や、ここ俺んちだから。」
「オメーんちは分かってんぜ。このクソ寒いのに縁側で腕組んで何してんのか?って訊いてんだよ。」
前髪に隠れる双眸がどうした形を作ったのかは知れない。純白の庭へ向く縁側に佇む男は、口の端をうっそりと持ち上げ薄い嗤いの形を作る。
「何もしてねぇよ。」
見て判るだろう?と笑う口唇が動き、相手の応えなど待たず、茶でも飲むか?と続けて訊いた。
 渡された湯飲みを両手で包み、一緒に持ってきた菓子器の煎餅をチラと見て、銀時は饅頭じゃねぇと舌打ちする。無断侵入のクセに生意気だと言い捨てられるのは予想の範疇。思った通りに全蔵は勝手に来て贅沢だと、大幅には外れないいらえを返した。
「昔はよく降ったよな?」
暫しの間、ずるずると熱い茶を啜っていた。大通りから入り込んでいるから周囲に喧噪はない。普段なら時折行き過ぎるだろう車の音も、今は存分に積もった雪の所為でさっぱり聞こえない。低く垂れる雪雲のギリギリから、甲高く響くのは百舌鳥の音だろうか。平日の真っ昼間とは思えない静けさが、いっとき周囲へ広がっていた。ひとときの穏やかさを台無しにする、モソリと発した全蔵の問いへ、銀時はまぁな…と興味なさげに頷いた。
 銀時のどうでも良い風な素振りには慣れている。相手に聞かせると言うより、独りごちるかに全蔵はまた同じ意味合いを口にした。
「ガキの頃とかさ、なんかしょっちゅう降ってた気がすんだよなぁ。」
「降ってたろ?オレ、冬中あかぎれとかできてたし。」
「そりゃ、おまえが素手で雪掴んだりしてたからだろ?」
「なに?その図星…。」
「今日だってアレだろ?なんか浮かれてフラフラしてたんだろ?」
「ちげーって、ワビとかサビなんだよ、オレはさ。」
「なにが侘び寂びだっつーの。」
敷き詰められた真っ白の平坦さを、お構いなしに踏みつけ、足跡まみれにした男が、風流を口にするなど見当外れも甚だしい。鼻先で嗤う全蔵は、不意に胸中のむず痒さを覚える。銀時のつけた踏み痕が双眸に映る。成る程…と腹の底で合点した。
 冬と雪が繋がりを持たなくなったのは、ここに異郷の者が溢れ出してからだ。時折ちらつきはするが、嘗てのように全部を飲み込む傲慢な降り方をしなくなった。だから庭が一面一つの色で塗りつぶされるのも珍しくなり、だからそこに無粋な足跡が付けられる光景を忘れていた。
「…たく、ガキみてぇに雪に浮かれやがって…。」
目線を雪面に据えたまま、全蔵は相変わらず誰に向けるのか分からない言を垂れる。
「オメー、しつっけーな?イイじゃんよ、めった降らねぇんだから。」
銀時は大袈裟にふくれっ面を作る。風流も風雅も既にどこかへ置き忘れて、雪で浮かれてどこが悪いと開き直る。
「ばーか、テメェのこっちゃねぇよ。」
「じゃ、誰よ?」
「そんなヤツが居たんだよ…。」
家の誰よりも早く起き出し、庭を縦横無尽に歩き回り、挙げ句の果てにすっぽりと温い布団に包まれ寝入っている全蔵を、情け容赦なく起こしに来る人が居た。ご丁寧に冷え切った手で襟首に触り、仰天して飛び起きると、小僧のように得意満面の顔をしていた。だから全蔵の記憶に残る雪の風景は、踏み荒らされた白さと、早朝の淡い明かりだった。
 無視を決め込む術を覚え、いつしか雪が申し訳ていどにしか降らなくなり、そんな眺めも何処かへ置き忘れていて、けれども無礼な侵入者が同じ光景を目の前で繰り広げ、すると仕舞った場所すら覚えていなかったはずの諸々が、笑えるくらい浮かび上がり、胸中のむず痒さまで伴って、この男に何とも言えぬ気分をもたらした。
「ふーりゅーなヤツじゃねぇの?」
暫し互いの間に降りてきた沈黙を、銀時の素っ頓狂な声音が一掃する。
「拘るな?風流に…。」
余りの間抜けな響きに、何度目かの苦笑いを浮かべ、二人も同じ手合いが居るとは驚きだと、全蔵は大して愕いていない風に言った。


 重くのし掛かるかに広がる曇天の下、男が二人ボソボソと会話にもならぬやり取りをする。
「お!」
不意に声を上げたのは銀時だった。
「…んだよ?」
今度は何を言い出すのかと、面倒そうに全蔵が相手を見る。
「また降ってきちまった。」
顎をつぃと上へ持ち上げ、銀時が向ける目線の先、チラチラと頼りない白が舞い落ちていた。
「積もるな…こりゃぁ。」
見る間に数を増す雪片に全蔵が抑揚なくひとりごちる。それから随分長い間、男らは惚けたツラでただ雪を見ていた。







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