普通の日々
銀時&全蔵
何が普通で、何が普通ではないのか、そんな事はどうでも良いことだ。誰もが口にするそれは、響きとは逆に恐ろしく主観的で、自己を基準にしすぎていて、判別の規格には最も適さない単語だ。自身の属する社会が徐々に拡大する。今まで知らなかった人間を知る。すると普通だと思っていたものが普通でなくなる。普通は曖昧だ。だから普通などと思わないようにしていた。
玄関のがらり戸を前に、全蔵はその周囲を具に見回してから、どうしたものかと首を捻った。呼び鈴らしき物が見あたらない。まさか液晶モニタを通して来客を確認するような、流行のセキュリティが設えてあるとは思わなかったが、外壁にも戸枠にも一切それらしい装置がないのは予想外だった。少なくとも屋号を記した看板を掲げ、客の依頼を受ける生業なのだから、やって来た者が来訪を告げる何某かがないのはおかしな話だと思う。が、無いモノはない。捜したところで、見つかるわけもない。仕方なしに硝子戸を軽く握った拳で叩く。ガタガタと不景気な音が鳴った。屋内から更に不景気な声。欠伸をしているような間の抜けた返答が聞こえる。それから近づいてくる足音。ドスドスと素足で廊下を歩く、愛想の欠片もない男のやってくる音が徐々に大きくなった。
「あ〜ウチは新聞とか要らねぇから〜。」
誰かとも確かめず言い放つ相手に、何とも言えない苦笑いが浮かぶ。
「なんだ、それ?」
客だったらどうするのかと重ねると、銀時はニコリともせず、その時はその時だと予想に違わぬ返答を投げ寄越した。
「で、今日は万事屋さんに頼み事しにきたってか?」
「頼み事って言やぁ…まぁ、そうだけどな。」
「なに?おまえ…客?」
「客っつーか…。」
「仕事の依頼なら奥でジックリ聞くぜ?」
「いやぁ、その…アレだ。」
「意味わかんねーけど?」
「だから、先週のとその前のジャンプ捨ててなかったら見してくんねぇ?」
「はぁ?」
「買えなかったんだよ。」
プッとあからさまに噴き出す男を前に、全蔵はやっぱり来なければ良かったと、今更なことを思った。
いい大人がどのツラ下げてジャンプを読みにくるのか…。もしも銀時が真っ当な大人ならそんな小言を垂れただろう。が、相手も同じ穴の狢。一冊のジャンプを真剣に取り合った間柄だ。部屋の隅に積み上げられた雑誌の山を、顎をしゃくってそれだと教え、適当に読めばいいと普通の顔で銀時は言った。
「何処に積んだかわかんねーから、てきとーに捜してくんね?」
「あ…悪ぃな。」
「読んだらちゃんと積み直しておくよーに。」
「おお…。」
既に全蔵の目は背表紙へ貼り付き、目的のものを捜している。それにしても一月やそこいらの数ではない。ざっと見ても半年以上が、ここに在る。
「捨てねぇのか?」
手前から山を崩しつつ全蔵が訊く。
「あー、なんか捨てる時が判んねぇっつーか、燃えるとか燃えねぇとか、ゴミ出す日を間違えっと大家が五月蠅ぇのよ。」
「雑誌は資源ゴミだろーが。」
「だから、そーゆーのがサッパリなワケだって。」
「しょーがねぇな…。」
床へべたりと腰を降ろす男が、背を向けたままで笑っている。何が可笑しいと突っ込んでも、振り向かず『別に…』などと受け流す。いい大人の男が二人。他愛もない会話をかわし、一人はソファでずるずると茶を啜り、一人は熱心に雑誌を選り分ける。
時計の長針が一回りする少し前、ようやく2冊を探し当てる。伸び上がり、同じ姿勢で強張った躯を解していると、背後から間の抜けた声がかかった。
「みっかった?」
「あー、ゴチャゴチャに積んでっからえらい時間かかっちまった。」
「じゃぁ、それ持ってこっち来いよ。」
「え?なに?」
覇気のないツラで見遣る銀時は、それ以上何も発せず、のそのそと部屋を横切り、奥の襖をカラリと開けた。
わけを訊いたところで言うつもりのない人間からは何も引き出せない。仕方なしに全蔵はその背を追う。以前、一度だけ来たことのある主の私室だ。あの時は夏の凶暴な陽射しが存分に射し込んでいたが、今は秋の終わりの午後で、輪郭のぼやけた陽が淡く広がっていた。銀時は敷きっぱなしの布団を足で隅へ蹴り飛ばす。現れた畳は薄く日に焼けていた。
「ここ、寝てみろ。俯せでいいから。」
「はぁ?なんだ、それ?」
「なんだじゃなくてよぉ、ゴロっとながーく寝てみろっつってんの。」
前髪を透かしてわけの判らない要求を垂れる相手を見る。無意識に訝しげな眼差しになっていた。だがそんな全蔵の様子にも頓着はないらしく、銀時は見慣れた締まりのないツラで早くしろと急かすばかりだ。
この男は顔を合わせると『SEX』を口にする。互いの間に何らかの関係性を持ち出すなら、その短い単語以外に見あたるものがない。だからまず全蔵の頭に浮かんだのは、その文字だった。が、今は真っ昼間で、子供らはいないけれど、すぐにも帰ってくるかもしれず、それにもしも銀時が行為を強請っているのだとしたら、こんなまどろっこしい流れを作るはずがない。最初からはっきりと『やろうぜ。』と吐き出すに違いないのだ。寝転がれと促す意味の中にきっと『SEX』は含まれない。確かな理由などないのに、全蔵はそう確信して、しかし相手の真意が知れないから、胡散臭そうな眼差しを隠しもせず、渋々といった風に畳の上へ寝そべってみた。
たった数分の事に、遅いだのグズだの忍者のクセに素早さがないだの、同じ様なもんくを一気にぶちまけつつ、銀時はよっこらしょと全蔵の傍らへ座り込む。
「わ!テメッ!」
座り込んだと思う間もなく、ごろりと仰向ける男が尻の辺りへ頭を乗せてきたから思わず声が出た。
「いやぁ〜具合イイから。前からおめーのケツを枕にしたらイイ具合だと思ってたけど、やっぱオレの目に狂いはなかったつーか、イイわ、おめーのケツ。」
お構いなしなのは常のこと。銀時は読みかけだったのだろう最新号のジャンプを拡げ、相手の様子など何処吹く風で、あっという間に熟読の体勢にシフトしている。肩越しに半ば振り返り、チラと様子を探れば、腐抜けたツラを更に緩ませ、男が持ち上げた誌面を読みふけっていた。
「坂田…。」
「ん?」
「ちょっと訊くけど、おまえが読み終わるまで俺はケツを貸してやらんといかんのか?」
「まぁ、そーゆー流れつー感じ?」
「じゃぁ、これ…貸せ。持って帰って読んだら返しにくるから。」
「あ、それダメだから。反則!それ反則な。」
「んでだよ!?」
「万事屋さんのギャラだから、身体で払うってヤツだから。」
「なにそれ?」
「タダなわけねーっしょ?このご時世に。」
勝ち誇った響き。実際、ページから目を離さない銀時の口元は、愉快でたまらない時の形に緩んでいた。
いい歳をした野郎が真っ昼間から寝ころんでジャンプを読む。それは尋常ならざる有様に他ならない。が、そんな現実に気づかず、二人の男は食い入るほどもページへ没頭していた。一冊目を読み終えた全蔵から、なんとも満足気な溜息が洩れる。
「読むの遅ぇな…おまえ。」
背後から声がした。
「…っせぇ、俺の勝手だ。」
二冊目を拡げながらモソリと返す。
「あんま遅ぇから二回目も終わっちまった。」
「二回も読むな。一回終わったら退けって。」
「や、オレの勝手だから。」
同じ台詞で反撃をしつつ、銀時は三度目に突入する。肩越しにまた振り返る全蔵の双眸に、飽きずにページを捲る、やる気の無さを絵に描いたような姿が映った。
くっと喉の奥から笑いが溢れる。紙を捲る音と共に、何を笑ってんだと輪郭のぼやけた問いが聞こえる。何でもないと答える。でも笑気は納まらない。昼日中、繰り返し漫画を読む馬鹿らしい姿は、間違いなく自分そのものだと気づいたのだ。視界に映った普通とはほど遠い男は、まさに己だと思った途端、阿呆らしさと可笑しさがこみ上げた。それを普通だと思っていた自身が、馬鹿馬鹿しくて情けなくなった。だが、これが全蔵には普通なのだ。そして自分のケツに頭を乗せ、覇気の欠片もないツラでジャンプを眺める男にとっても、これが普通の日々に違いなかった。
「いつまで笑ってんだよ?」
「っせぇーよ、黙って読めって。」
「気持ち悪いんですけど〜。」
「じゃぁ、耳塞げ。」
他愛のないやりとりが、午後のぼんやりとした部屋の中にいつまでも続いていた。
何が普通で、何が普通でないかなど、実はどうでも良いことだ。ただ、同じ普通を手にした相手がすぐ間近にいるのは、居心地の良い風に思えて、実は心底尻の座りの悪いものだった。馴染むのは容易い。けれど馴れ合いは御免だ。ざらついた紙の上に視線を滑らせ、頭の片隅でそんな事を転がしていると、泣けるほども間の抜けた声がした。
「なぁ、また買い逃したら来いよ…。」
全蔵は迷いもせず、ずっと以前から用意していた返答のように、薄く嗤いながら一言を突き返した。
「やだね…。」
了