雨晒しなら濡れるがいいさ
銀時vs全蔵
雲行きが怪しいと判っていた。親類の家宅を出た時も、傘を持てと薦められた。断ったのは、寄越されたそれはあくまで拝借するもので、後日返却へ来なければならないのが面倒だったのだ。ガキの頃から、もう何遍訪れたか知れない屋敷。近隣へ来た折りに、フラリと立ち寄ったのも珍しくなかった。今も、これからも親類の者達は変わらないはずだ。でも借りた傘を返しに来るのが億劫で仕方なく、だから大丈夫だとやんわり断ったのは、家督を継いだ事で、自身の内側に何某かの変化が起こった故だと自覚していた。それが遠慮めいた台詞となった。だから降り出した雨に悪態を吐くのは間違っている。
それでも滅多に袖を通さない略礼の長着と羽織りが、絞れるくらい濡れてきた頃、誰に向けるでもない文句が零れた。
「くっそ…。未だけっこー距離あんじゃねぇか…。」
最初から賃走の籠なり車なりを使えば良かったものを、歩けない距離でもないと、ブラブラ徒歩で戻ったのも悪かった。降り出した時、さっさとそれらを捕まえもせず、失敗したと思った時には、髪からも雫が滴るくらいの有様で、そうなったら逆に身なりが良くても、敬遠されて流しの賃走など掴まるものではない。だから諦めて歩いた。雨足は強まる気配もなく、けれど断じて止まない執拗さを滲ませて、街全体を黒々と濡らしている。
ぼちぼちと見慣れた家並みが目に映る。始終足を運ぶほどの親しさはない。が、用事の折りに通った道だ。ここへ辿り着く頃、藍鼠の羽織りも長着も、濃藍かと見まごうくらい水気を含んでいた。肌へ貼り付く感触が気色悪い。特に裾の辺り、一歩先へ踏み出すたび、足へまとわりつく布の肌触りが鬱陶しかった。そして重い。じっとりと濡れた生地は、普段の倍以上、重量を持って身体を覆う。しかしさほど寒くはない。ずっと歩き続けていたからだろう。染みこんだ雨が温さを奪うより、身の内の温度が勝っているに違いなかった。往来には平日の夕刻を行く人並みが在る。その中を、ずぶ濡れの男が歩いているが、周囲は別段気に留める様子もない。もっと急いた風に歩を速めているなら浮き上がって目立つだろうが、悠然と当たり前の顔で濡れていると、以外にも他人は目をくれないのだと、雑踏の中で思う。それに元から群れの内側へ埋もれるのには長けている。他者の目に映らぬ術は、息を吸うくらい身体に染みついていた。
雨の所為で鈍色に塗り変わった街を、人の流れに紛れて行く。視線はほぼ目の高さ。雨の粒は細かすぎて、薄い被膜になり総て覆っている。全蔵の目がふっと一点へ向いた。自分が人の中へ身を隠すのが得手だとすれば、その男は万人の内にあっても存在を知らず誇示するタイプに違いない。軒先すらないビルの壁に、だらりと凭れる姿が視界に映る。傘はない。ぼんやりと虚空を眺め、男は濡れるのも気にせず、ただそこに突っ立っていた。流れに乗り近くへと寄る。間近で人の群れから抜けだし、すっと真横へ立った。
「傘、ねぇの?」
挨拶代わりに訊いてやると、宙を彷徨っていた視線が全蔵へ向いた。
「ねぇ…つーか、おまえ…傘ねぇの?」
「ねぇよ。」
「マジでか!!オレは、アレだよ。さっきまであったんだけど、出て来たら無かったつーか、持ってかれたっつーか…さ。」
意味を為さない説明に、全蔵から失笑が洩れる。
「なに笑ってんだよ?」
「言ってる意味がさっぱりわかんねぇんだけど…。」
だからよぉ…。
やっと筋道を立てた経緯が、やる気のない声音となり流れ出た。
呆れる話だ。パチンコをして、散々負けて、無機質な音に送られ、自動扉の脇を見れば、確かに置いたはずの傘がなかった。つまりはそれだけのことだった。
「止まねぇぞ、この雨…。」
庇のないビルの壁に寄りかかっていても、濡れるばかりで埒が明かない。
「止むの待ってんじゃねぇって…。」
「じゃ、なにしてんだよ?」
「ボーっとしてんの。」
そりゃいつもだ…と全蔵の薄く嗤いに揺れる声がする。そちらへ目もくれず、銀時は言葉通りの惚けたツラで前方へ視線を投げた。並び壁に凭れ、傘のない男二人は、意味もなく流れ行く人の波を眺める。午後の終わりが夕刻へ変わろうとしていた。鈍色の空は相変わらずだ。雨の滴も同じだけ降り落ちていた。
突っ立っていても、歩いたとしても、濡れるのに変わりはない。腹を括り、全蔵は背を壁から離す。
「俺ぁ、行くわ。」
「どこ行くって?」
「家、帰るんだよ。」
「あー、オレはどーするよ?」
「俺に訊くな。」
「だって無くなったのアレだぜ?神楽の2番目に気に入ってる傘だぜ?無くなったとか言えねぇだろ?勝手に使ったのバレんだろ?」
「んなこたぁ、知らねぇよ…。」
代わりの物を買って帰らないところを見ると、殆どを台に飲まれたのだろう。振られても、どうにかしてやる義理もない。
「じゃぁな…。」
歩き出すと、さっきより更に重くなった衣装が貼り付いて心地の悪いことこの上もない。冷たさも募っている。自然と踏み出す足が速まった。
交差点を渡る。人の波がわずかに増えた。夕暮れは誰しもを急かすのか、流れはいくぶん速さを増す。全蔵は意識を背後へ集める。顔を動かさず、目線も遣らず、気配だけで数メートル後ろを伺った。それから不意に路地へと入る。唐突とした挙動だ。でも、人の群れには逆らわず、だから男が一人脇道へ消えたことを気づく者など居なかったろう。
路地は既に夜が忍び込んでいた。周囲は城壁のごとき建物の壁。窓はない。あったところで、飲食やら風俗の店の灯り摂りのそれだ。大通りから踏み入っただけで、辺りは全部墨色に塗り変わる。全蔵は夜目がきく。薄暗さを気にもせず、入り組んだ細い道を音もなく進む。右へ折れ、左へ曲がり、わざわざ迂回する。歩速はずいぶんとはやい。だが小走りと言うにはゆったりした足取りだった。通りの喧噪が薄まった辺りで、不意に立ち止まり、ずぶ濡れの男はクルリと後ろへ向いた。
「薄気味悪ぃーな。なんでついて来んだよ?」
「急に裡へ入っから近道かと思ってよ。」
「テキトーな事ぬかすな。」
「や、マジだって。オメーなら抜け道とか知ってそうじゃね?」
「だったら黙って後付けてくんなよ。」
「まぁ、気にすんなって。」
びしょ濡れの銀髪は、暗がりでニヤリと笑った。面白い悪戯を思いついた、ガキの浮かべる笑いに似ている。質の悪い素直さを滲ませた強かな男が一歩踏み出す。ガサリと音が鳴る。地べたに落ちた、塵芥を踏みしめ、銀時は更にわずかの距離を縮めた。
銀時の腹の内は読めない。大通りから距離を取り後ろを来たのに気づいていて、だから敢えて裏道へ入り、偶々方向が同じなのかと浮かんだ疑念を確かめた。同じ間合いのまま、相手は背後を追ってくる。問いただしたところで真意を吐く輩ではない。誤魔化しだと判っていたが、全蔵は深くを探らなかった。そして眼前にまで歩を進め、真正面に立つ男を凝眸する。ふやけた笑いがあるだけで、やはり抱く本意は判じられない。
「…んだよ。」
やる気のないツラへ取り敢えず問いを投げる。
答えはない。代わりにつぃと腕が上がった。一本伸ばした指が、長く降ろす前髪へ触れる。
「濡れると益々顔、見えねぇのな?ちゃんと前見えてんのか?そんな技?忍者的な…。」
「テメェの莫迦ヅラもしっかり見えてんだよ。」
それがどうした…。言いながら伸べる腕を払う。
「見えてんなら別にイイけどよ。」
「イイならイイだろーが。」
「ま、見えてんならアレだ。キスしねぇ?」
「またソレかよ…。」
「股じゃなくてさ、口にキスしよーっての。」
股の方が良いなら、それでもイイけど…。
相変わらずの押しの強さと掴み所のなさで、銀時はあっさりと全蔵の口を塞いだ。抗いは無駄だ。全蔵は承知している。だから素早く身を翻さず、押し付けてくる口唇のぬるい温度を、不承不承ながらも受け止めることにした。口吻を痺れるくらい吸われれば、同じだけの強さで相手の温柔さを貪ってやる。隙間を狙い舌が押し入れば、あっと言う間に引き込んでやった。口内を明け渡さない。拒むのではなく、迎え撃つ強かさ。どちらも引かず、どちらも臆さず。角度を変え、舌を絡ませ、それでも足りないかに、唇を押し付け合って、わずかの距離を嫌う風に、貪欲さを丸出しに接吻を続ければ、いつしかそれは激しさを身につけ、互いを求めているかの錯覚を生んだ。
知らぬ間に、どちらも相手の躯へ腕を廻し、胸を合わせるほども抱き寄せていて、触れる肉体に一部から、人の温さが伝わってきた。そこだけが冷たさを忘れる。安堵に似た心地よさが濡れた衣服の感触を凌駕した。
「なぁ…。」
根本から渾身で舌を吸い上げたあと、自ら唇を離し、銀時が言う。
「ムカついてる?」
呼吸の足り無さに上がる息の合間から、全蔵が『いいや…。』と返した。
「じゃぁ、ヤル気満々か?」
「おまえにヤラれっぱってのが我慢なんねーの。」
「ガキみてぇ…。」
「テメェが言うな…。」
「ベロ、散々入れてくっからヤケんなってんのかと思っちまった。」
「だから、そんなガキみてぇなことしねぇっつーの。」
喰えない男がまた唇を合わせてくる。断固として引かない男は先を制して近づく柔らかさを舐めた。閃く舌先を銀時が吸う。濡れた音が鳴ったが、それは周囲を包み込む雨音に邪魔され、すぐさま地べたへすべり落ちた。
路地の周りは恐らく飲食の店屋だ。夜とともに賑わいを増す。換気扇から吐き出される油臭さ。そこに芳ばしい匂いが混じる。絡み合う雑音と臭気。そして頭上からは降り止むことを忘れた雨粒。欠片も雰囲気などない。寧ろ似つかわしくない空間。そこで男が二人、しとどに濡れ抱き合っている。最初はどちらも挑むような口づけを、そのウチどちらからともなく股間を押し付け合い、今は口吻を合わせるのも忘れ、互いの股ぐらをこねくり回す。衣服の上からでも焦燥に苛まれるくらい強く、這わせた手がはっきりと形を作るイチモツを握る。
「くっ……。」
銀時が竿の輪郭を握りしめ、掌で圧迫しながら雄を扱く。相手の耳殻を舐めていた全蔵が思わず息を飲んだ。
「出そう…だったろ?」
「…っせぇ。」
悔し紛れに押し当てた掌でぐぃと屹立を捏ねる。
「うっ…バカ…急に…すんな。」
「出そうになったろ…?」
欲情し、熱を孕んだ息と一緒に勝ち誇った台詞が銀時の耳管へ吹き込まれる。
「っ…。」
堪らず腰を引く銀時に、追い打ちをかける如く全蔵が握った指にちからを込めた。
大の男が相互に股間をまさぐりあう。ずぶ濡れで、息を乱す様は馬鹿らしいことこの上もない。しかしどちらも止めようとはせず、ただひたすらに快感を追った。着物の端が雨粒に打たれると、それを厭う。けれど、どこもかしこも濡れてしまえば、どうでも良くなる。路地裏で阿呆の如く竿を掻き合うのも、恐らく同じくらいのどうでも良さがもたらした行為なのだろう。
「うっ…ぉお…ヤメ…莫迦っ…。」
「くぅ…出る…てか…ちょっと出た…。」
くぐもった呻きやら、獣じみた唸り声を垂れ流し、彼らは先を争うように射精を促す。金がないとか、パチンコですったとか、どこまでも捨てられない人との関わりとか、家名やら家督やら、親族やら恩義やら、まとわりついて離れない数多のしがらみも、今だけはどうでも良い気分になる。
煽り合ってほぼ同時に精液を吐き出す。心地よさに充足の吐息をこぼす。だが衣服に染み出た粘液の感触に、気色悪さを覚える。どちらからも忌々しげな舌打ちが聞こえた。
「どーすんだよ。こんな形で帰れねぇだろーが?」
戻ってきた良識で声を荒げる全蔵を薄笑いでいなすと、銀時はもそりとつまらなそうに呟いた。
「こんだけ濡れちまってんだから、全然わかんねーって…。」
見上げれば細い四角に切り取られた夜空からは、いまだ盛大な雨粒が降り落ちていた。
了