戸惑う舌

ベルッチオ×伯爵 -挿絵-

 ガクリと大仰な振動が伝わり、次いでガリガリと厭な音が響いた。馬車は路肩に寄りそのまま動きを止める。雨の中ベルッチオは車外へ飛び出し、瞬く間に戻ってきたと思えば苦笑とも失笑とも取れる曖昧な表情を浮かべこう言った。
「敷石が欠けていたか或いは一枚が外れていたようです。」
伯爵は別段気にも留めぬ風で外に向けたままの顔を家礼へ向けもせず『それで…?』と続きを欲した。
「馬の脚部が損傷しましたのと、蹴り飛ばした欠片が車軸を擦ったと思われます。」
「動かないのか?」
「そのようで…。」
「歩いても然したる距離ではないか…。」
相変わらず窓外を眺め、伯爵は独り言のように呟いた。
「屋敷に戻りまして、其れなりの支度を整えて引き上げに来るのが懸命かと…。」
「アリは残るのか?」
「恐らく。」
「ならば早く戻りお前と…バティスタンが此処へ来ると言うことだな?」
「先にヤツへ通信を入れておいた方が迅速に事が運ぶと思いますが…。」
「しかしバティスタンが此方へ来ても、お前が屋敷から引き返すのを待つなら結局同じ事なのだろう?」
「まぁ、そうなります。」
それなら通信は不要だと伯爵は述べ、座席からゆるりと立ち上がった。後ろ手に閉めたばかりのドアを家礼は速やかに開けると歩道へ降り立ち、いつの間に手にしたのか判らなほどさり気なく開いた傘を差し掛ける為に主の降車を待った。
 外套の裾を捌き伯爵は淀みない仕草で馬車を降りる。シルクハットを目深に下ろし幾分俯き加減なのは顔に降りかかる雨粒を避けるためである。しかし細かい水滴が肩先に落ちるより早く家礼の傘が伯爵の上に掲げられた。外套と同じ漆黒の傘は伯爵の真上に開き、空間をみっしりと埋める細い雨であっても決して主を濡らさぬ広さがあった。
 脚部に支障を来した馬の横にはアリが立ち、気遣わしげな眼差しでその箇所を眺めている。伯爵がその様に気づき二人が来るまで車内で待つよう命じた。ぺこりと頭を下げるアリが馬車へ乗り込むのを確認し伯爵と家礼は漸く屋敷へ向け歩き始めた。
 一歩を踏み出した途端、傍らの主から軽い笑い声が漏れベルッチオは一体何事か?と其方へ顔を向ける。伯爵も視線に気づいたらしく笑気の理由(わけ)を口にした。
「いや、富と虚栄の街の車道でこんな事が起こるとは思わなかったのでな。」
「整備が悪いと?」
「幾ら飾り立ててもメッキはいとも簡単に剥がれると言うことだ。」
「なるほど。」
一旦言葉を収めた伯爵が今思いついたと言う風に再び口を開いた。
「以前にもあったな。」
「はい。」
「あの時はもっと激しく降っていたが…。」
すぐ先の歩道へ落としていた視線がつぃと上がり、伯爵はどこか懐かしげな眼差しを鈍色の空へと送った。


 東方銀河の極東にあたる惑星は主たる産業を農耕とする穏やかな地を数多有する星であった。伯爵が其処を訪れたのは一部の地域で生産される茶葉を交易の一品として取り扱う段取りをつける為だった。
 当初、伯爵の秘書でもあり有能な部下でもあって更にこうした商い全般を取り仕切る男は、此の提案に難色を示した。現在の鉱石をメインとした取引で充分な資産を蓄えることが可能であるのに、如何なる思惑から全く畑違いの品を品目に加えるのかと、ベルッチオは珍しく伯爵に意見した。
「貴族は嗜好品を好む。」
伯爵は其れだけを口にし思わせぶりな笑みを刻んだ。ベルッチオはそれ以上の進言を仕舞い、また主の発した言の意味を訊ねることもしなかった。
 期が熟せば必ず降り立つであろう虚栄の都。そして彼の地で伯爵の張り巡らせる糸に絡め取られる相手は貴族なのである。その者達に近づく手立ての一つか、はたまた事前に伯爵の名を記憶の片隅に刻む為の策かは知れなかったが、少なくとも主の抱く『復讐』と言う大儀に必要と判じた末の決なんだろうと家礼は理解した。
 惑星の中心に位置する首都にて茶葉を扱う商社を訪ね取引の詳細を切り出したところ、あまり商いには不向きと思しき下心の欠片も持ち得ない無垢な笑顔を張り付けた男が、実は生産者の許可がなければ新たな契約は行えないと宣ったのである。
「それは・・どうした理由でしょう?」
穏やかな物腰の貴族が不思議そうな表情で問えば、果たしてそんなことまで教えても構わないのか?と訝しく思うほども男は細々とした経緯を語った。
「では、その方がお許しにならない限り私どもはお取引を戴けない・・と言うことになりますな?」
「はい、気難しいのとは違うのですが、何と言いますか・・自分のメガネに叶った相手以外とは契約をしてくれるなと言われるのですよ。」
「直接お会いすることは可能でしょうか?」
「ええ、別に人嫌いではないから・・訪ねられますか?」
「はい。」
所在を記した紙片が絹の手袋を嵌めた手に渡される。が、其れはそのまま傍らに控える家礼へと差し出された。ベルッチオがざっと眼を通し厳かに述べる。
「大凡ですが此処から二時間と少し・・と言ったところかと。」
「出来ましたら、本日お会いできるかを先方にお伺いできますでしょうか?」
当然だとばかりに担当は通信を開く。二言三言、交わされたのはそれだけだった。向き直った男は午後なら会えるとの由を伯爵へ伝えた。
 二人が中心街を離れたのはそれから三十分と経たない頃で、この時足として使っていたアトランティック・クーペが独特の排気音を響かせ郊外へ続く街道を一路西へと走り抜けた。
 市街地を離れ1kmほどで路面から舗装が消える。けれど街道と呼ばれるだけあり硬く践み固まった道はさして走行に支障はなく、難を言えば振動が些か気になる程度でベルッチオが当初予測した二時間を二十分ほど超える頃には目的地の直前に辿り着くことが出来た。
 周囲は全てが緑のこんもりとした連なりで、其れが遙か先までずっと広がっている。目視できる限界まで鮮やかな緑色の灌木が続く眺めは初めてのことで、伯爵は延々と途切れない同じ景観の筈が全く飽きることがないと思っていた。更に遠方は低い山並みが平地を囲むようで、それらもやはり緑の色で塗られているのだが眼前に在るのとは異なる深く濃い葉の色だった。
 ベルッチオはハンドルを握りゴツゴツと突き上げる振動を気にしている。確かに未舗装にしては非常に走りやすい道である。でもタイヤに当たる小石や小さなギャップから伝わる小刻みな其れは決して心地よくない。僅かの間なら気にも留めないが、目的地まで延々続くとなると話し別だ。常に同じリズムで感じると眠気を誘いもするだろう。が、不規則な体感は思ったより疲労を覚えるものだ。彼は臨席に収まる主がこの不躾な振動で不快な思いをしていないかが気になった。
 顔は正面に向けたままでチラと隣を窺う。伯爵はシートに深く座り頬杖をついて巻き上げる土埃で少しばかり霞んだ硝子の外を眺めていた。酷くぼんやりとした、普段あまりお目に掛からない無防備な横顔が視界の端に映る。双眸の下に翳りがないか、本人は顔に出していないつもりでも常に傍らに在る者にだけ見取れる薄く降り掛かる疲労の色がありはしないかとベルッチオは探ってみた。幸いなことに懸念に値する諸々はないようで、しかしその割りにはらしくない茫漠とした様が寡黙な家礼の唇を開かせた。
「お疲れになりましたか?」
「いや。」
直ぐさま戻るいらえの声も平素と変わらない。漸くベルッチオは胸中にあった訝しさを短い息と共に吐き出した。自分でも気にしすぎる自覚はある。そして伯爵は殊更な干渉や言動を快く思わない。実際お前は何を気にしているのか?と真顔で訊ねられたあと、真っ正直に返答した途端苦笑混じりに呆れられたことがある。だから努めて形にならぬよう気を遣っていた。
「間もなく先方のお屋敷が見えて参るはずです。」
伯爵は其れに対するのとは全く別の台詞を口にした。
「初めて見る景色だ。 緑に此程も様々な色合いがあるとは知らなかった。」
「飽きませんか?」
「飽きないな。」
非常に興味深いと伯爵は小さな笑みを浮かべる。思えば日々の殆どを船内で過ごし、所用で惑星へ降りたとしても大概は短い時間でそれらを済ませ土地に数日留まるのも珍しい。こうして地べたを走る車中で窓外に流れる景観を眺めるなど滅多にないことである。主が楽しんでいるなら其れに越したことはない。ベルッチオはそれでも捨てきれなかった探るような眼差しをここでやっと捨てることが出来たようだ。
 家礼の言葉通り、十分と経たぬ間にこんもりとした木々に埋もれる屋敷の屋根が見えてきた。土地特有の建築様式なのだろう。近づくに連れハッキリとしてくる屋敷の形状は嘗て見たことのない作りであった。伯爵は少し乗り出し前方の家屋を見つめ、独り言であるかに『珍しいな。』と呟いた。
 窓外は穏やかに晴れ渡り、温々とした陽射しの色で満たされている。こんな日は目的もなく主を乗せ車を走らせてみたいものだと、ベルッチオは望みとも願いともつかぬことを考えていた。


 伯爵が邸内に招かれたあとベルッチオは少しの間巨木の作る木陰に佇み周囲に警戒を張り巡らせていた。こんな郊外で、まして周囲数キロがこの屋敷の持ち主の土地である。だが警戒はしすぎることはない。不審なものなど在ってたまるかと、麗らかな午後の陽射しが鋭い視線を彼方此方に向ける男をからかっている風だ。其程も穏やかな土地で、当たり前であるが不審な物も人間も彼の視界に入って来ることはなかった。
 丁度警戒を解くのを待っていたかに、屋敷の者と思われる中年の女性が現れ彼を屋内に招いた。客の側近や従者の為に用意されたと思しき玄関脇の小部屋へと通される。女性は一杯の茶を置き、もう暫く時間がかかるだろうと言い置いて姿を消した。言葉どおり伯爵が屋敷の主人と共に玄関へ姿を現したのは三時間ほど経った頃で、昼の陽射しが夕刻の色を纏い始め空が掠れた緋色へと塗り替えられていた。だが車を回すため外へ出たベルッチオの上空では、猛烈な勢いで雲が流れている。高見には相当の風が吹いているらいし。夕方へと近づくにも拘わらず大気は重い湿気を孕んでいる。途中で降られるかも知れないと彼は慌ててエンジンに火を入れた。
 同じ景色も行く道と戻りでは人に違った印象を与えるものである。まして空の色が変わり視界に広がる世界が熟れた果実の色味に染められていれば尚のこと、伯爵は再び硝子の外へ視線を送り続ける。
 微かな嘆息が落ちたのをベルッチオは聞き漏らさず、どうしたのか?と少し声を落として訊ねた。結局面談の目的は果たせたわけだし、車に乗り込んだ時に主が言葉少なに語った内容から先方は別段頑固でも気難しくもなかったと知っていただけに、伯爵が思わずと言った風に嘆息する意味が解せなかった。
「ああ、少々気疲れした。」
「物わかりの良い相手かと思っておりましたが?」
「先方の手の内が読めないのはなかなかに気を遣う。」
「なるほど・・。」
唐突と決まった訪問であり、急遽ベルッチオが相手のデータを拾いに奔走したが釣り上げられたのは簡単な経歴程度しかなく、先方が単なる一庶民であるから其れは仕方ないにしても、事前に手の内が読めぬのは難儀であったのだろう。其処から解放され気が抜けた故の溜息だったようだ。
 閉鎖された動く密室で伯爵は表面を覆っていた諸々の警戒を解いたらしく、往路より遙かに茫々とした顔をしている。シートへ背をすっかりと預け、時折目蓋が降りるのは珍しくも微睡みが寄せているのかもしれない。この空間に安心しきったかの様は、こんなことを口にしたら不遜どころか無礼にも当たるから決して言うつもりなどないけれど、鋭さを手放した横顔が酷く子供じみていると思えて仕方がない。ベルッチオは自分の内側にある敬愛では括れない感情が頭を擡げるのを感じている。主と家礼である関係が煩わしく思えるその気持ち。手を伸ばせば充分届く距離に身を置く相手を、そっと抱き寄せてしまいたくなる心持ち。其れは常に自分の中にあって、切欠さえあれば形にしてしまいそうで捨てるべきだと判っていながら、そうできない感情であった。
 いくら真っ直ぐな道であっても真横へ幾度も視線を投げるのは戴けない。しかも度を過ぎれば伯爵が気づいて不審に思うかも知れない。ベルッチオは右側のシートに注がれる自分の意識をフロント硝子へと戻し、背を正してハンドルを握る両手に少しだけ力を込めた。すると遙か前方に不思議な色が留まっているのに気づく。丁度鈍色の帳を広げたような空間が道の先を遮っている。飛ぶように流れていた雲と湿気を含んだ風を思い出す。温まった大気が生んだ雨雲が其処で待ちかまえているのだと察した。
「この先は雨のようです。」
横の硝子に向いていた伯爵が顔を前方へと移す。
「通り雨か?」
「恐らくは。」
「問題はなかろう?」
「左様で・・。」
車は速度を落とすことなく鈍色の空間へ直進する。気づいてから十分と経たぬ間に周囲は激しく落ちる雨粒が踊る景色へと変貌した。


 伯爵の半歩後ろがベルッチオの定位置である。其処から真横へ並ぶことはない。決して縮まらぬ距離が自分と伯爵の関係を如実に顕していると頭の片隅で思いながら家礼は歩いている。
 馬車の止まった場所からシャンゼリゼの屋敷まではのんびり歩いたとしても二十分はかからない。伯爵はせかせかと歩を進めたりしないが殊更にゆっくりと歩くこともない。すっと伸ばした背に湿り気を含みいつもより若干緩やかに波打つ髪が揺れている。
「あの時は雨足が激しくて難儀したな…。」
前方に視線を据えたままで伯爵が語りかけた。
「道も酷くぬかるんで往生しました。」
『あの時』を瞬時に察しベルッチオが答える。もう随分と以前のことに思えるが、たった数年まえのことだ。東方銀河の東の果てに降り、茶葉の取引を求めて訪ねた相手の屋敷から戻る際、にわか雨に降られ車の車輪を轍へ落とした為に徒歩で市街地を目指したあの日のことを伯爵は述べていた。
「たった二キロほどに一時間以上かかった。」
「直ぐに止むと思いましたが、読みを外してしまいました。」
夕刻を過ぎ、市街から来る車や人に手助けを頼めない状況に徒歩で戻ると言い出したのは伯爵だった。ベルッチオが止めなかったのは所詮いっときの雨だから直ぐに上がると読んだからで、しかし其れは見事に外れ結局街へ戻っても其処も変わらずの雨天であった。自分が予想を間違えたことを責められているとは更々思わないが、それでも家礼は幾分済まなそうな声音でそう言った。
「お前は…。」
言いかけた伯爵が何故か先を収め、ベルッチオは続きが気になったが敢えて何も訊ねない。すると背にかかる髪がふわりと靡き、伯爵が肩越しに半歩後ろの家礼を振り返った。
「なにか?」
「いや…。」
やはり続けるつもりはないらしく主は再び前へ向き直る。
 あの時、其れに気づいたのは己がぬかるみに足を取られ体勢を崩した為であった。空かさず背後から支えの腕が伸び伯爵は無様に泥へと倒れずにすんだ。済まないと言いつつ離れようとして、無意識に相手の肩へ手を掛けた伯爵は驚嘆しベルッチオの顔を凝眸した。触れたそこがぐっしょりと濡れていたのだ。雨足は強く当然傘の下にあっても幾分は衣服が湿り気を含むのは避けられないけれど、ベルッチオの半身は雨粒を直接受けたように濡れそぼっていた。
その理由はすぐに判る。家礼は半歩の距離から傘を差し掛け、主の全身をその下へ入れる為自分の片身を傘下に納めず歩いていたようだ。
 横に並び自身も傘下に入れと伯爵は少し強く命じる。が、家礼は頑として了承しなかった。伯爵を濡らさぬのが自分の努めだと繰り返すばかりで、決して半歩を踏み出さず歩き続けた。一時間と少しの距離を歩きながら伯爵は幾度後ろを振り返ったか知れない。一度濡れた衣服は徐々に湿った範囲を広げていき、その日の逗留先であるホテルの玄関へ辿り着いた頃、ベルッチオは傘を持たず歩いてきた人と同じくらい濡れ鼠の体となっていた。
 そして今はどうか…と確かめれば其れは全く変わらず、肩を濡らした男が伯爵の斜め後方を歩いていた。
「ベルッチオ…。」
「はい。」
「お前は相変わらず頑固だな。」
「は?」
言われた意味が解せずベルッチオは首を傾げる。でも伯爵は素知らぬ顔で口を閉ざした。言っても聞かない人間に言葉は不要かと腹の底で苦笑し、本当にもう少し柔軟に物事を捉えても良いだろうにと苦言を垂れる。どうしたものか…と考え、仕方のないヤツだと密やかな嘆息を洩らした。
 短い距離であるから瞬く間に屋敷へと帰り着く。解除コードを打ち込み重ねて個人認証のため右手の人差し指を翳せば、玄関の扉は音もなく開き主を迎え入れる。先にエントランスへ入った伯爵は足を止め傘から水滴を払うベルッチオを待つ。再び扉が閉まり、家礼は真っ直ぐ主の元へ歩み寄った。
 エントランスの中央に佇む伯爵はベルッチオが傍らへ戻っても歩きだそうとしない。
「どうされました?」
突っ立ったまま自分を見つめる伯爵にベルッチオは怪訝そうな眼差しを送る。丁度向き合う形となった。外套を受け取ろうとベルッチオが手を差し出すより早く伯爵の腕がつぃと上がった。
 其れは先ず家礼の肩に振れ、それから体の脇へ下ろした腕を確かめ、そのあと何を思ったか首筋から項を撫でた。
「伯爵・・。」
「私の言う事を聞かぬから…。」
眉を顰める端正な面(おもて)に浮かんだのは苦い笑いだった。
「こんなに濡れているではないか?」
聞き分けのない子供に向けるかの其れが忠実な家礼の内側に燻る仄かな熱を煽ったなど伯爵は気づいておらず、だから次ぎの瞬間何が起こるかを予想もしていなかったに違いない。


 抱き締められた刹那、自らが放った小さな声があまりに儚げだったことを伯爵は後悔した。もっと強く諫める何かを発せられない己に呆れかえった。無礼だと怒鳴りつけるべきだと分かり切っているのに、相手の肩を押し返すことも出来ぬ事実と身じろいだ背を緩く撫でられた途端其れさえ止めてしまった自身に驚嘆した。
 きつく腕に囚われたのも瞬く間のことであったが、咄嗟に開いた口唇を塞がれたのも一瞬の出来事だった。まるで決まり事であるかに、その行為は淀みない流れを持っていた。生暖かい其れは伯爵の薄唇を覆うように閉ざし、強引さを漂わせ深く押しつけられた。密着したと思えば軽く離れ、再び触れた其処を啄む仕草で吸った。離れるたび口唇に感じる温度が失せ、でも半瞬もおかず舞い戻り、その温もりは気まぐれに角度を変えて深く貪り或いは浅く触れる。幾度目かのこと、密着する感触が不意に距離を取る。その時伯爵は今一度戻る体温を待っている己を知った。微かに開いていた筈の口唇をゆっくりと開き、再びやってくる感触を待ち望む風に眸を閉じている。礼を欠く行為に怒りを覚えるどころか其れを切望でもするかの様を作る己が信じられない。しかし拒絶を顕す意志は何処かへ置き忘れていて、いくら捜しても見つからなかった。
 浅ましいと己を詰る。ベルッチオを責めるのはお門違いだと伯爵は判っていた。彼の忠誠を良いことにあんな行為を命じたのだ。一度ならず二度、更に三度目をと言い渡したのは一昨日のことである。家礼が口唇を押しつけて来たのは、きっとああした行いを重ねた所為だと考える。何事もなければ、こんなことをする男ではない。己との性交がベルッチオを惑わせたに決まっている。そして己は今またしても新たな過ちを犯そうとしている。拒みもせず、接吻の甘さを待ち望んでいる。此処で止めなければ…唇を引き結び躯を離さねばならない。なけなしの理性に手を伸ばそうとしたその時、伯爵はまた寄せてきた口唇を受け入れていた。
 憶え始めた柔らかさが重なり、だが次ぎの感触は今まで知り得なかったものだった。ぬるりとした違和感に肩が跳ねたのは単に驚いたからに違いなく、けれど其れが開いた隙間から口内へ忍び込むのを感じ、舌を差し入れられたのだと確信した。軽く閉ざす歯列を無理矢理こじ開けられるかと身構えたのもつかの間、意外なことにベルッチオは逃げるように舌を引いたのである。
 伯爵が自身に戸惑っているのと同様にベルッチオもまた自分の振る舞いに驚愕する。伯爵が肩に触れてきたのは覚えている。そして肌に張り付いた袖を指先で確かめたのも記憶にあった。が、その後がどうにも判然とせず突如自分の腕に主を抱いていると理解したのは、恐ろしいことに自らの舌が伯爵の薄唇を割り開き拒むかに閉じている歯列をなぞった硬質な感触が飛び散っていた理性を呼び起こしたからだった。
 自分の申し出から伯爵と夜を共したのは二度、そして一昨日三度目をの請いに従ったばかりだ。未だに伯爵がSEXに求める真意は判然としていない。ただ回を重ねるたび少しずつだが変わっているのには気づいている。前戯も愛撫も、繋がる行為以外の全部を切り捨てようとした伯爵が二度目の時肌への接吻を止めようとせず、三度目の夜は胸への愛撫で酷く善がった。その様はまるで想い合った者の情交であるかに自分を錯覚させ、これまでよりずっと近くで伯爵を感じられる事実が時折直接的な性欲を煽るようになった。以前なら堪えられた身の回りの世話で、時として自身を制しきれないかと恐ろしくなる瞬間すらある。でもベルッチオは其れをやり過ごしてきた。もし欲に屈したならもう此の場所には居られないと念仏の如く脳裡で繰り返し事なきを得ていた。
 未だ鮮明すぎる情事の記憶が生々しすぎたからか、それとも肩先に触れてきた伯爵の湿気を含んだ髪から常より強く芳しい香が鼻孔の奥を刺激したからかもしれず、他の者より遙かに自分を律することに長けているベルッチオが欲望を抑える暇(いとま)を逃したのは相当に珍しい事態であったわけだ。
 だから理性を取り戻した彼は瞬時に淫らな舌を引き、無礼な腕を解こうとした。半歩の距離を取り戻し、謝罪を述べて垂れた頭(こうべ)に降ってくるであろう叱責か糾弾か激怒かを甘んじて受ける準備を即座に作った。自分でも呆れかえるくらい強く拘束する腕の力を緩め伯爵を解放しようとした。が、其れは叶わなかった。
 背に廻した腕が離れようとする。それは本当に躊躇いもない潔さで伯爵から遠ざかろうとしていた。己よりずっと高い体温が触れている場所から失せていく。自身が人とは異なる生き物だと如実に知らしめる其れを厭わしいと思っていた筈なのに、伯爵は離れ行く温もりを手放すのがどうしても許せず、許せないと思った時にはもう相手の腕を掴んでいた。
 引きかけた腕を取られ面食らったベルッチオは半端な状態で固まってしまった。自分の立つ場所へ戻ることもならず、だからといってもう一度腕を廻すなど考えもしなかった。伯爵の次を待つこと、其れが彼に与えられた全てであった。
 最前、何かに突き動かされたようなベルッチオの接吻を受けながら拒絶を顕わにせず更により深い其れを願った自分を伯爵はまったく理解出来なかった。軽薄な欲望だと片づける程度しか己を分析出来ずにいて、男に貫かれる痛みを凌駕する快楽が身の内に宿した熱を忘れられないからだと思うことで自身に折り合いを付けようとした。
 だが離れる腕を引き留め、更に当たり前のように躯を預けた理由は不思議なくらい判っている。簡単なことである。己はこの忠実な男に寄りかかりたいのだ。例え相手が其れを不条理な主の命だと服従する以外の何ものでもなかったとしても、まるで愛されているかの錯覚に落ちて行きたかったのである。一度知ってしまった人の温度を心が求めて止まないからに違いなかった。故に、相手の胸に躯を寄せ接吻の続きを促したのであった。


 戸惑う舌が歯列の上を一度すべる。そして迷いが捨てきれない仕草で口唇の形をなぞった。先ほどの荒々しさが嘘であるかに、ベルッチオは迷いの欠片を抱いたまま接吻をしていた。
 伯爵は決してあからさまに行為を強請ったりしなかった。ただベルッチオの腕を引き寄せ離れることを嫌がっただ
けだ。自らが躯を預けてきたくせに、家礼へ向けた顔は酷く困ったようで二つの色に塗り分けられた眸は困惑の波に揺れていた。全く腑に落ちない。釈然としないにも程がある。主のらしからぬ姿を目にしてベルッチオがどう反応すべきかを逡巡したのは一分に届くか届かないかの合間だった。そして彼は小難しい理屈とか理由を丸めて捨てることを選んだ。自分が想わず抱き締めてしまったように、主も何某かに突き動かされる時があるのだろうと納得するよう努めた。
 仄かに開く隙間を見つけベルッチオの舌は伯爵の口内へと忍び込む。踞る相手の舌には触れず、口蓋をゆるゆると舐めた。そして頬裏の粘膜を窄めた舌先で幾度か擽る。何かを感じたのか伯爵の肩先がぴくりと動いた。
 冷たい肌とは異なり、伯爵の口内は濡れて暖かい。其処はベルッチオに憶えのある別の場所を連想させた。酷く狭い衝き入れた性器を包み込むあの場所が脳裡を掠める。奥を犯すたび、伯爵が淫靡な声を漏らす様までが浮かびあがり、彼は半端に持ち続けていた迷いの切れ端をやっと手放す切欠を得た。
 戸惑う舌は欲望の形へと変貌し、それまで接触を躊躇った伯爵の舌へと忍び寄る。ゆっくりと近づき先ずは先端で誘うように触れた。驚き逃げる其れを強引に絡め取ろうと追う。咽喉の手前で行き場を無くした舌は呆気なく掴まり拘束され根本から強く吸われた。
「っ…ん…。」
鼻先から零れるのは恐らく苦鳴だ。呼吸を遮られた生理的な音である。
「ぁ…はぁ……。」
ところが思い切り吸い上げ解放した途端、乱れた呼吸と共に流れ出たのは甘すぎる吐息だった。
「伯爵…。」
耳元に囁くと軽く背に当てていた伯爵の指が家礼の上着をギュッと握りしめた。未だ離れるなと言っているようでもあり、早く続きをと請うている風にも思える。ベルッチオは鬱血し仄かに朱の射す主の唇へ自分の口唇をまた押しつけた。
 逃げてばかりだった舌が怖ず怖ずと差し出される。それまではただされるがまま引きずり出され囚われては吸い上げられていた。呼吸が足りないと苦しげに身を捩るまでベルッチオは許さず、息を吸うだけの距離と暇(いとま)が済めば再びそこを塞いで思うままに貪った。夢中になろうと努めたのは最初だけで、伯爵の舌先が口唇の隙間からチラと覗いたのに気づいたなら貪欲さを剥き出しにしていた。
 先端を軽く触れあわせる。求め合っているかに二つの舌は互いの感触を確かめた。そして引き合うように絡まり縺れてから不意に離れた。
「ぅ……ん…。」
鼻先から聞こえた其れは接吻にすら感じ始めた伯爵の声で、抱いている躯の一部をさり気なく太股で探ると其処は衣服の上からも判るくらい形を為していた。相手の欲情を知れば自分の情欲も昂まるのが当然で、ベルッチオは少し前からずくずくと疼いていた股間が大きく脈打つのを感じる。自分と伯爵の同調、与えて与えられたかと思える充足、それを相手に伝えたいとベルッチオは誘う仕草で彷徨う伯爵の舌を奪った。
 軽く吸い合って僅かの隔たりを保った途端、ベルッチオは伯爵の口内を嬲るように舐めまわした。まるであの場所を掻き回されているような淫猥な動きで粘膜を摺られ、伯爵はまた己の股ぐらが熱くなる感覚に身悶えする。口唇を重ねるだけの行為が、仮に舌を吸い合ったりはしても、此程性交を連想させるとは考えてもいなかった。
 もう終わらせなければと今更な思いを伯爵は取り戻し、でも痺れた怠さを孕む腰の疼きは其れを嫌がっている。そんな胸中を知っているように、ベルッチオが口蓋を満遍なく舐めさすったのち無防備に佇む伯爵の舌を強く捉えた。きつく絡まる其れが根本からあり得ない激しさで貪り吸い上げる。それまでも幾度か味わった浮遊感が舞い降り、薄く開いた視界が白で覆われると、酩酊にも似た虚脱感が伯爵を揺さぶった。此はきっと呼吸がままならない故の現象だと霞む思考が囁きを寄越す。だが下腹部だけがリアルな熱さに膨れあがっているのも事実だった。
 伯爵が終わりを思ったのと同時にベルッチオも此の次ぎはないのだと自覚していた。舌根を狂ったかに吸ったのは離れる為の儀式とも言えるけじめとしたかったのだろう。解き放った伯爵が名残の欠片もなく躯を離してくれれば良いと思う。今の行為は戯れにすぎないと愚かな従卒に知らしめて欲しいと、随分身勝手なことを願っていた。少なくとも仕掛けたのは自分なのだから、間違っても主の口から謝罪めいた台詞が漏れないことを望んだ。
 しかし願いとは往々にして叶わないものである。伯爵が酷く身を捩り、強引に唇を取り戻したのは確かに呼吸の足り無さからだった。手前勝手な思考に浸っていた家礼が其れに気づかなかったのは責められるべきである。でも胸を喘がせ忙しなく空気を吸い込む伯爵の囁きは『すまない…。』と聞こえた。


 平静を取り戻した伯爵はゆっくりとした動作でベルッチオから離れた。向き合ったが俯く主の表情を家礼は窺えず、彼は常より低く抑えた声で『申し訳ありませんでした』と述べるしか出来ずにいた。
 伯爵は其れが聞こえなかったように全く別の台詞を口にする。
「早く…アリの元へ行ってやれ。」
「はい。」
「私は…部屋に戻る。」
言い残し踵を返す伯爵はもう振り返るつもりなどないらしく、私室へ続く廊下に響く靴音は一歩を踏み出す事に遠ざかっていった。
 ベルッチオはまだその場に佇み伯爵を見送っていた。同じ間合いで空間を揺らしていた硬質な音が不意に途切れる。立ち止まった伯爵は前を見据えたまま穏やかな声音でベルッチオと呼んだ。
「はい…。」
「有り難う……。」
家礼は深く静かに頭を下げ、主の姿が屋敷に降りる薄闇の彼方に消えたのちも暫く同じ姿勢を崩さずにいた。







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