Neuromancer
切り立った崖の上に立つ。刹那の眼前で巨大な人型がゆっくりと下方へ降りていく。それは静かに岸壁の底へ沈み、足を折って壁面へ背を預ける。人で言うところの臀部を地面に下ろし、座位になるのを見届け、刹那は知らず止めていた呼吸を再開した。
辺りは暮色から夜色へ塗り変わっていた。黒々とした空と海の境界はもう肉眼では判別出来ない。暗がりに座るエクシアを崖の上から見下ろし、壁面と同化するようリモートで光学迷彩を起動させる。刹那から短い息が漏れる。ホッとした証だ。ここなら愛機は誰の目にも触れない。そう考えた途端、潜めたため息が小さく吐出されていた。
ドーバーに面した岸壁は滅多に人が訪れない場所だ。昔は大陸からの船が定期的に行き交っていたろうが、今は違う。欧州からもアフリカからも、海底のチューブラインを利用するしかない。だから海側からエクシアに気づく者はいない。まして周囲と同化させた機体を遙か上方から見つけるのも不可能だ。だからこの場所を選んだ。
アフリカ大陸を2週間ほどかけて巡り、当初の予定ではオーストラリア周辺の孤島を選び、調達した部材を使用して機体整備を行うつもりだった。
予定を変更したのはAEUでは特異な立ち位置にある島国が、間近にあると悟ったからだ。そして其処が共に戦った狙撃手の故国であることを思い出したのもあった。
AEUに属しながら孤立したかに迎合を許さないその国にも、民族間の内紛はある。だが今現在は沈静化し、その原因の一端を刹那らの介入が担っていたのだから、訪ねてみようと考えたのも不思議ではなかった。
アフリカから空路を選択し、シャトルの定期航路を避け、西側から回り込むように東南の端にある断崖を目指した。事前に確認した通り、夕暮れの近い時刻に人影は皆無だった。嘗ては名所として観光に訪れる者が多数あったらしい。が、石灰岩で構成される崖は浸食と風化により現在は立ち入りが制限されている。純白の法衣を纏ったシスターを思わせた美観も、脆く危険を孕む断崖と成りはてた。だからこれが昼の日中でも、人が此処にやってくる事はないのだ。
御誂え向きの場所だ。刹那が降り立つにも、エクシアを一時的に隠しておくにも、打って付けだと彼は考えた。
夜の闇に閉ざされたそこに、しかし長居は無用である。少なくとも進入制限地区ならば、なんらかの警備が行われているだろう。刹那は足早にその場から離れる。徒歩で20分ほど行けばチューブラインのステーションがある筈だ。そこから中心街までは大凡30分強。周囲への警戒をしつつ、刹那はそこを目指した。
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墨色の空間。感熱による無指向性生体反応の赤色が瞬く。目標に視点を移動。ビーム兵器の照準を修正。コンソールパネルに並ぶスイッチの一つ。ビーム発射トリガーに指をかける。直撃を確信しつつトリガーを絞る。その時、モニタ前方に鮮やかな煌めきを見た。恐らく時間にして一秒の数十分の一だったろう。相手の放ったビームの直撃を避ける退避行動。それはほぼ無意識の動きだった。だが完全には避けられず、機体右下部に衝撃を感じる。モニタを含む電装系が瞬く間にスパーク。漆黒と紅蓮が視界全てを塗りつぶしたその後を、アリー・アル・サーシェスは覚えていなかった。
肉体が不意に宙へ投げ出される感覚。ハッとして両眼を開く。同時に上半身が発条仕掛けの人形よろしく跳ね起きた。咄嗟に付いた右手で身体を支える。掌に触れる柔らかな感触は不織布のシーツ。そこで漸く同じ夢にたたき起こされたのだと気づく。
「クソが…。」
悪態は何処にも向いていない。週に何度も同じ状況で目覚める自身に嫌気がさしていただけの話だ。
色の褪めたカーテンを通し、浅く弱い光が室内に射る。まだ早朝だ。それも予想外に早い。サーシェスは再びごろりと仰向けに横たわる。目線の先、黄ばんだ天井が視界に映った。時間にして3分くらい、同じ姿勢で上を眺め、ゆっくりと起き上がった。
この日は二つ用事がある。一つは午前、もう一つは午後。細かな時間の指定はない。が、部屋にいたところでする事もなかった。だから起き上がった。そして身支度を始めた。
サーシェスの身支度には時間がかかる。まずベッドから降り立つまでが厄介だった。左足は付け根から下がカーボンセラミックの義足だ。そして右は膝から下が同様の作り物。
但し左右の見てくれは全く違う。左は一応足の形を模している。メタリックな質感はそのままだが、少なくとも人の足の形状だ。関節もある。自由に曲がりはしないが、ゆっくりと膝を付くことくらいは出来た。
問題は右足だ。これはどう見ても単なる棒状の支柱に板状の部品が接続してあるとしか見えない。お世辞にも『足』とは呼べない代物が膝の下にくっついている。
紛い物の両足をベッドから下におろし、壁に立てかけた杖を取る。ロフストランドクラッチと呼ばれる、肘に固定するタイプだ。左腕にカフで固定し、杖に体重の60%ほどをかける。完全な立位に至るのに、1分くらいは必要となる。
一度立ち上がれば造作なく歩行できる。だが寝る前に脱ぎ散らかした衣服を身につけるのに、また手間がかかるのだ。だから身支度には時間を有する。この儀式めいた行動を日々繰り返す現状に、サーシェスは辟易としていた。
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脇道の薄暗さに、男の纏う黒いコートが紛れる。間隔を置いてぼんやりと点る外灯が、その赤褐色の髪を時折鮮やかに照らした。
脇道に入ると格段に人の数が減った。歩道を行くのは男と刹那だけで、それ以外は車道に駐車する車の中でやらかしている連中が居るくらいだ。尾行には最悪の状況だ。刹那は見失わないギリギリまで距離を空け、時には立ち止まり、或いは車の影で様子を覗いつつ、男の後を行った。
脇道に折れて、若い相手とのやりとりをしてから3ブロック進んだところで、突如男が足を止めた。
「なんか用か?」
振り向きもせず問いが声になった。当然それは刹那に向けている。
「…。」
しかし刹那に返す言葉はない。黙り込む以外の術を持っていなかった。
「金か?」
短い問いだ。黙したままでは拙いと、刹那は口を開く。
「いや…。」
「じゃぁ、ブツか?」
「…。」
応えあぐねたのは、『ブツ』をどう解釈して良いかを迷った所為だ。
「コイツはやれねぇな。」
「いや…オレは…。」
適切な返しが思いつかず、刹那は語尾を濁す。
「にーちゃんじゃぁ、一発でヤラれちまうぜ。」
台詞の最後の辺りに、硬質な金属が擦れる音が混じった。拳銃のセイフティを外す音に間違いない。刹那は身構える。男の動きに全ての意識を集めた。
「物盗りじゃない。」
漸く選び出した一言は間抜けな響きで刹那から漏れた。
「こっちのケツをずっと追っかけて来て、盗人じゃねぇってか?」
「違う。」
「じゃぁ、用向きはなんだ?にーちゃん。」
男が右手を僅かに動かす。拳銃はコートの右ポケットにでも忍ばせてあるのだろう。グリップを握り直したか、トリガーに指をかけた動きだろうと刹那は読んだ。
「何時から…気づいてた?」
この状況なら会話に持ち込むのが上策だ。そこで刹那は言葉をかき集める。
「店の前から後ろに居たろ?」
「知ってたのか…。」
「まぁな。」
会話はごく普通のトーンで交わされる。でも、既に男が刹那に銃口を合わせているのは確実だ。
「ここには初めて来た。だから売りが誰だか知らない。」
男の口にした『ブツ』をドラッグと仮定し、刹那はそれらしい台詞を綴った。
「店から出て来た時、あんたは持ってそうだと思った。」
「だからケツつけ回したか?」
「どこかで買うかも知れないと思った。」
「で…?」
「さっきのヤツが売りだってわかった。」
「だったらもう用はねぇだろ?」
「連中は簡単に売らない。」
「まぁな。」
「だからあんたの住処を押えようと思った。」
「俺に聞いたとか何とか言うって腹か?」
「そうだ。」
処番地や、もしもネームプレートでもあればその名を出して、教えて貰ったのだと適当に話しかけるつもりだったと、刹那は脚色した。
「そりゃ、中々の名案だ。」
男は愉快そうに笑う。刹那は一連の会話から、この男が誰であるかを確信した。
『アリー・アル・サーシェス…。』
脳裏に一つの名前が浮かんだ。
歩道の先で、サーシェスがゆっくりと振り返る。刹那はその動きを予想していなかった。男の正体が確定した事に気を取られていたからだ。身構えることも出来ない。
「連中、俺の名前もヤサも知らねぇ。」
「え?」
「ヤツに話(ナシ)つけんなら、杖持ったオヤジに聞いたって言えや。」
外灯の光から外れた薄闇に立つサーシェスが、そう言ってニヤリと笑った気がした。
緩慢な動きでサーシェスが歩き出す。刹那は惚けたようにその場から動かない。遠ざかるシルエットを、ただ歩道に佇んで見送ることしか出来なかった。
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他人のペニスを握りこんだのは初めてだった。躊躇いがなかったわけではない。が、サーシェスが厭になるくらい急かすので、刹那は仕方なしにそれを握った。
「もっと…力入れろや…。」
他人が触れただけで息を上げる男は、そう言いながら刹那の手に自分の掌を重ねた。
「お…ぁ…あ…。」
強めに掴んだ竿を搾ると、サーシェスが満たされたような声を上げた。
「その…ぁ…扱け…っ…。」
言いながら刹那の手を握る自分の腕を上下させる。
「そ…っ…あ…ぁ…もっと…だ。」
掌と指に、ペニスが更に硬く膨れる感触があった。
「う…っ…ん…ぁ…。」
指に込める力を強め、上下の速度を増した。たったそれだけの行為で、呆気ないくらい簡単に射精は訪れる。
サーシェスが大きく息を吸い込む。重ねる無骨な指が刹那の手を痛むくらい強く掴んだ。
「くっ…っ…ぅ…。」
仰臥する躯が一度大きく震え、その直後低く野太い声が上がった。
「あっ…ぉ…ああ…っ…。」
手の中の性器がびくびくと動き、絞り出した声に呼応し、白濁した液体が亀頭の割れ目から噴き出した。
咄嗟に刹那が手を引いた。解放されたペニスは少しの間、幾度も震えながら短く精液を吐出していた。